安倍元首相殺害関係言説について
Ⅰ 基調は、「意見の違いは言論によって解決されるものであって、暴力によって主張を封じようとするのは<民主主義>への挑戦だ」という言い方である。
更に問い詰められるべき方向線
①国内の意見の違いを暴力によって解決しようとするのは「民主主義への挑戦である」が「国」際的な意見の違いは、暴力(軍事力)によって変成可能であり、それに備えて暴力を備蓄しなければならないという思考との関係はどのように、整合または共存できているのか、またそれはどのように変成されるか。
②「意見の違い」は様々な脈路において成立しているはずだが、「民主主義」の前提として、政党や選挙、個人という形式が自明とされるのは、どのような歴史的、思想的脈路によるものであるか、また、それはどのように変成可能か。
③おそらく、これらの思考の過程で露出してくる、それ以上分解できないものとされて思考に登場している諸概念=基体を自解させることが、必ず必要になる。
④すなわち、主体、自己、個人、自由、政治、経済、貨幣、などの用語である。
⑤ ①への回答として、そのような民主主義への挑戦に対抗するために国内でも警察力などを言論外の「力」として保持しており、それは「国」際間における軍事力と同様だ、といってみた場合。
その言説が含む前提はどのようなものか。
⇒諸言説の対立はその言説の脈路においてでなく、その「主体」における対立であり、また、「主体」とは、ひとつの基体としてそれ以上自らでは分解、理解できない、自解できないものとして、神秘的な「もの」として現前、体験されるもの、とされているのではないか。その前提が論理の地平線をなしている。
別の言い方をすれば、諸言説の対立において、それぞれの言説に登場する<同一語>において、それがそれぞれの言説脈路ではどのような構成を成り立たせているかの分析が行われていない。
何らかの事件の後にネットの掲示板やSNSを見ると、本当に人々が好き勝手に犯人像を言い合っている様が分かる。
⇒「好き勝手」であれるのは、言説を発するときに、その事象について具体的に与えられた言葉がまだ少ないために(41歳、男性、20年前3年間自衛隊員だった、近くに住んでいた、など)、与えられたそれらごく僅かの言葉に組み合う形としての「意見」の生成空間においては、(事象について更に豊富な具体的な言葉群が提示されてしまえばそれらから強いられるはずの「整合性」を考慮しなくても済んでいるために、)それぞれのファンタジーがそのまま展開されても、それが不合理であることを証明できる言葉も、「整合性」としては成立できず、そのファンタジーへの「批判」は同じようなファンタジー、恣意性によってしか成立できないからである。このことは、「整合性」への考慮という思考作業を経なくても言説をいくらでも生成できるという「経済性」を持っているから、かくして「発言」への欲求をもつ諸個人は、「自ら」の表現として、実は「恣意性」の発露として、如何様にも言説をまき散らし、並立することができる、こととなる。SNSはその記録簿として容量を増やす。
ネットの予想では徹底的に自分と政治的思想が違う者を犯人にしたがる傾向がある。
⇒今回のこと、すなわち、人を殺してしまう、ということは、否定されなくてはならないという前提があるために、その否定的な事象を引き起こしたのは自らの「敵」であるという<論理反応>によるものである。