2022年の日本における参議院選挙結果をうけて
19世紀末 ニーチェは「主体」が思考するのではなく、思考が「主体」を構成していると逆転させた。
その事によって「権力」概念は「超然たる基体が行使する力」という神秘化から、思考が「自らの」行動を定めるその思考過程を指すものへと変化した。『道徳の系譜』13節など。
またニーチェは「言葉」についても、それが共通の「経験」によって成立することを指摘した。『道徳の系譜』268節
20世紀後半、フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、デリダらフランスの思想家たちは「主体」を解体することに地道をあげてきた。そして「主体」の後に来る、あるいはその行程で出現してくる、ある「体」によって著作は紡がれてきた。
彼らは「言葉」というものも、差異や対比という論理的な動力によって生成されているものであって、対比される対立概念のその対比構成自体を分解しようとし、その方向線は、その対比構造で作られている社会の変成に向かっていた。
「個人」への「付託」、というものが民主主義とされ、それが地平線となっている。
諸問題の脈路は具体的であるが、それが投票による代議制によって、その脈路とは別次元である「個人」の選択という判断に蒸発してしまう。数年に一度それを繰り返すことで諸個人の生命は終わり、地平線は動かず。
選挙する、選択するものは「主体」であり、選択されるもの、政治家というものも、「個人」「主体」である。
その「主体」「個人」は18世紀における市民革命の規定に基づき、絶対的な正義、真理、「基体」であるから、それを原理とする選挙も絶対的な正義とされるのである。
その原理からして、その結果としての判断が論理的に合理的であるかどうか、ということとは全く関係無いことになる。
そのような「主体」「個人」を基底とする民主主義と多数決原理は常に「良きこと」自由と正義の守護神とされ、それと対比される「悪い社会・国家」という設定・対比によって、すなわち自らを対比性としての「良き社会・国家」として規定することによって、自らを保ってきた。
保ってきたが、投票率の低下と、実際に問題解決ができていない結果は、その地平線自体を疑わざるを得ない動きも、同時に生成させるのは必然である。
この、具体的な軋轢の脈路が全く別の脈路(「主体」・「個人」)に簒奪された上で「決定」され、またその過程が正当(民主主義)であるとされる、この論理的錯誤は、「貨幣」と「具体性」との関係とも同じである。すなわち現在の論理的混迷の表れである。
その構造については、20世紀のフランスの思想家たちも十分には分析できていなかった。
この論理的混乱を解くのには、現代数学で取り扱われる、無限論が必要とされる。
累進的に増加し、彼方に思い描かれ、発散してしまうものとしての、すなわち神秘化としての「無限」ではなく、取り扱い可能な「無限」を構成して、神秘化を解体することが必要だったのだ。
有限、可算無限、連続(非可算)無限の区別が思考の混乱を整理する。