死の完全な外在性、「死」は徹底的に外在的なものである
2022/07/17 ⇒ 2023/04/20
死の完全な外在性とは、「死」を「物質」とすることである。
その理解を内在化するということは、「主体」、「意識」、「私」などを限界付け成立させる項として一対となっていた「死」を、廃することでもある。そのような限界づけを論理的に廃すること、それらの限界づけを解体することに他ならない。cf「物質をいかに内在化するか」
2022/08/30 国鉄清算事業団以来の友人へのLINEから
論理的に想定される身体の変化(いずれ「死ぬ」こと)と、現在いろいろああでもないこうでもないと活動している思考の空間は、まったく別のことだ。言い換えれば、「自分はもう年だから」とか、「身体の何々が悪いから・・」、とか、「どうせ死ぬんだから・・」等々の理由づけで限界づけられた「自己」というのは、論理的には間違っているのではないか、と最近思う(実感する)ようになりました。
「死」は徹底的に外在的なものである、という理解は、爽快なものです。
2024/03/31 の補注
ウィトゲンシュタインのアンソロジー(世界の思想家23「ウィトゲンシュタイン」黒田亘編集 1978年)の表紙に「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない。」(「論理哲学論考」)とあるのを見た。
「スピノザとわたしたち」アントニオ・ネグリ 信友健志訳 水声社 2011年に、スピノザが「自由な人間は死について考えることがない。そしてかれの知恵は死についての省察ではなく、生きることについての省察である」と書いた事への言及を見いだす。(「エティカ」第4部 定理67。引用されていたのは「エティカ」 (中公クラシックス)工藤喜作・斉藤博訳2007年 p389。岩波の「スピノザ全集Ⅲ エチカ」では「自由な人間は何よりも死については考えない。その知恵は死の省察ではなく生の省察である。」p254。)
いずれも、知としてではなく、それを生きること、から生みだされる。