匿名性
2020年2月3日
2022年3月11日
われわれは匿名性をかちとる必要がありますし、ある日ついに匿名になるであろう、という巨大な推測を正当化する必要があります。
それは、古典主義時代の人達が、真理なるものをみいだしたと巨大な仮定をし、その真理にみずからの名を冠することを正当化する必要があったのと、いささか似ていますね。かって、ものを書いていた人にとっての問題は、万人の匿名性からいかにみずからをひき離すか、でした。こんにちでは問題はみずからの固有名称をうまく消し去り、語られるさまざまな言説の巨大な匿名のざわめきのなかに、みずからの声を入りこませてしまうことなのです。
匿名であろうとすること以外に意図のないような本にたいして独自性とか個人的性格とかのしるしを多くあたえているものは、ある文体の特権的な形跡でもなければ、独自な、ないしは個人的な解釈というしるしでもなく、それはいわば消しゴムによる一撃の激しさなのです。その一撃によって、しるされた個人的性格を想起させるようなものはすべて、もののみごとに消しさられるのです。
<古い読書の傍線から>
ミシェル・フーコーインタビュー
歴史の書き方「言葉と物」をめぐって 福井憲彦 訳
1987年 「actes」 No.3 日本エディタースクール出版
P178-179より
※『ミシェル・フーコー 思考集成Ⅱ』筑摩書房 1999年p445-446 には石田英敬 訳
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