ガタリの無限理解の不徹底について
『群像』1992年4月号 特別インタビュー カオスモーズの方へ フェリックス・ガタリ
聞き手=宇野邦一 1992/1/20 ※死の7ヶ月前
p341
社会的関係、人間的関係、価値の宇宙に関して、それが普遍的な永遠のものである、という考え方から脱出しなければ、抵抗は不可能だ.われわれが生きている価値、世界は、根本的な有限性を刻印されている。どんなものも有限なのだ。イデオロギーであれ、マスメディアであれ、いつも人を永遠という錯覚にひたらせるが、それは同時に責任をまぬかれていいという錯覚でもある。もし世界が永遠なら、すべてなるがままに放っておけばいいし、何も介入しなくていい。逆に世界が有限だという感情をもっていれば、どうしても問わざるをえないんだ.この世界で私は何をしているのか、私は与えられた期間、与えられた関係の中に存在するが、そこで世界と私を、価値の世界と関係の世界を建築し、再構築するにはどうしたらいいのか。そうするとすべてが過程的なパースペクティヴのなかにあらわれる。
ここで「無限」は、ごく通俗的に、発散する累進性として捉えられている。それは「有限」との対比で成立している。
現代数学での、有限、可算無限、連続(非可算)無限などの概念の組み込みは行われていない。
それらの概念と接合があれば、別の言い方が可能になっただろう。
すなわち、無限(漠然とした抽象)と有限(具体性・現実性)の弁別においてではなく,連続無限から可算無限のフィルターを通じて有限を「生成」しつつあるのが、生自体である、というような。2022/07/10