新聞の「不偏不党」の生成過程
「⾚旗」創刊93周年で考える 政党機関紙こそ⽇本のジャーナリズムの原点 (上・下)赤旗 2021年1⽉28⽇-29日 藤田健赤旗編集局次長 より
① 日本の新聞の始まり。大(おお)新聞と小(こ)新聞。
⽇本で最初の⽇刊紙は、明治3年(1871年)に発⾏された「横浜毎⽇新聞」。その後発刊された新聞の多くは現在のブランケット判くらいの⼤きさで論説主体の「⼤(おお)新聞」と呼ばれました。これに対して、タブロイド判くらいの⼤きさで、警察ネタや花柳界の話題などいわゆる「3⾯記事」を中⼼にした新聞を「⼩(こ)新聞」と呼びました。代表格が東京で発⾏された読売新聞」(1874年)と、⼤阪で創刊された「朝⽇新聞」(1879年)です。
「⼤新聞」は、⾃由⺠権運動とともに隆盛を誇りましたが、明治政府の度重なる弾圧で下⽕になります。とくに、1883年(明治16年)の新聞紙条例の改悪では、東京だけで13もの新聞社が閉鎖され、地⽅でも多くの新聞がつぶれたといわれます(板垣退助監修『⾃由党史』)。
②「中⽴公正」や「不偏不党」というスローガンは当時の政府への恭順を示すための標語として生まれた。
朝⽇新聞は創刊当初から「公平無私、勧善懲悪」(朝⽇新聞社執務規程)を看板にしましたが、その裏では1882年(明治15年)から85年(同18年)にかけて内閣機密費を毎⽉500円受け取っていました(注1)。当時の⼩学校教員の初任給が5円(明治19年)といわれますから、現在の初任給を25万円として、朝⽇新聞が受け取っていたのは⽉2500万円、年3億円もの⼤⾦でした。決定的だったのが、1918年(⼤正7年)に起きた「⽩虹(はっこう)事件」です。当時、「朝⽇」は薩⻑の藩閥政府を批判、⽶騒動の報道禁⽌について抗議して寺内内閣を弾劾する「関⻄記者⼤会」を開くなど、政府追及の急先鋒(せんぽう)でした。
ところが、その記者⼤会を報じた「朝⽇」の記事に「⽩虹⽇を貫けり」という⾔葉がありました。これが、中国のことわざで「兵乱の前兆」だとして、政府から「朝憲紊乱(びんらん)」つまり天皇制政府の転覆を意図していると⾔いがかりをつけられ、新聞紙法違反で弾圧されたのです。右翼団体による中傷宣伝・不買運動が横⾏し、社⻑が右翼暴漢に襲われるという事件もおきました。もちろん、⾮難されるべきは、⾔いがかりをつけて弾圧した政府の側です。
しかし、このとき「朝⽇」は、沸き起こっていた⾔論界の抵抗・批判と結んでたたかうという⽅向をとりませんでした。社⻑の辞任、編集局⻑、社会部⻑らの退社などのうえ、朝⽇新聞として皇室尊崇」「不偏不党」を宣⾔したのです(注2)。「不偏不党」はいわば天皇制政府への屈服の⾔葉だったのです。
(注1)「金百三十六円九十三銭九厘 朝日新聞補助金十五年五月より十八年四月迄毎月金五百円つつ相渡猶(なお)不足の分本行の通渡済明細勘定書並受取書あり」(伊藤博文『秘書類纂 財政編』)
(注2)朝日新聞社の「本領宣明」(1918年12月)「我社創刊以来茲(ここ)に四十年を閲(けみ)し、常に皇室を尊崇して国民忠愛の精神を鼓励し、言を立て事を議するは、不偏不党公平穏健の八字を以て信条と為し…」
以上から、
「不偏不党」は対抗する(あるいは対比される)複数の主体という仮想空間の中で、(この場合は「政府:天皇制」と「それに対比できるものとしての例えば「民衆」)との間の中で、どちらにも属さないものとしての「自ら」という主体、の定立として打ち立てられている。 それは、「負」=攻撃を受けること、の回避策として、少なくとも攻撃をしてくるものに対して、「自ら」が害にはならないことを宣言することで「自ら」を存続させようという動態によっている。