始まりの知-ファノンの臨床 の書評へのコメント
2018年10月28日
2021年5月13日
始まりの知-ファノンの臨床 冨山一郎著 書評 田仲康博
20181028東京新聞
「身体と身振りによってカテゴリー化され、異議申し立ての声が無視される暴力的な場面において、言葉は徹底して無力なものとなる。その結果、「話しているのに話しているとはみなされず、抗議の声も放置されたまま消えていき」、あきらめが広がることで「言葉が停止する」状況が広がる。著者は、そうした言葉の状況を「尋問空間」とよぶ。著者の指摘で決定的に重要なことは、権力による弾圧の対象となるのが発話の内容ではなく、発話という身体行為そのものであることだ。権力は、言葉本来の意味で「聞く耳」をもたない。「なにをしても無駄」だと思わせる尋問空間においては、圧倒的な受動性が状況を支配していく。」
⇒ 何をしても無駄だという理解自体を分解してしまうことは可能。それはこれをすれば有効、という形ではなく、その場所への、相手の行動思考への、解体という動作によって、「無駄」だという自己完結=相手の完結性の成立を無色化してしまうことを意味する。分析するという脈路が、体感と言葉を占有するとき、「無駄」という自己規定など成立させる時間はなくなる。その現前する事柄への分析の集中は、敵と味方を成立させない。
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