上海ビエンナーレ 2008
9月(2008年)に上海へ行ってきた。
1歳8ヶ月の娘とその母親と、3人の「家族旅行」ということだ。2歳未満なら2万数千円で行けるという情報で、どうしても今行かなければ一生の損だと思いこんだ母親の発想に従い同行することとなった。ちょうどビエンナーレをやっているということで地下鉄に乗り、それを見に行った。土曜日、会場は行列で、古い建物のため一度の入場者数に制限があり、その日は入場をあきらめざるをえなかった。
同じ公園内の現代美術館での企画展を見に行ったら、こちらはゆったりとしている。
翌日の日曜日朝、一人で出かけ開場30分前に並んだが開場時刻にはもう100人は並んでいただろう。
写真、ビデオは撮り放題?
驚いたのは、現代美術館ではそもそも日本の美術館には必ずある、撮影禁止の表示が見あたらないことだった。更にビエンナーレ会場でも柱に固定された撮影禁止の掲示は出ているのに、皆写真やビデオを撮りまくっているし、係員も気にも留めておらず注意もされない。少女が旅行トランクを従え、傘を身体の後ろに持っている構図の展示絵画作品の前で、その少女のポーズを娘にとらせ、写真撮影をしようとしている母親、
著作権?これらはとても面白いことだった。 かねがねインスタレーションや映像作品が多い現代美術について、撮影禁止、となっていることに納得がいかなかった。絵画の様な平面作品であれば、カタログの印刷でもある程度の追体験は出来るのだが、動く映像や音声、物体が一体となった作品では、一度その会場で見たらもう再現できず、細部について反芻して分析することも、再び見直して感動を味わうことも出来ない。 文字による文学や批評に対するのと同じように何度も読み込んで分析する機会を与えず、一回性に意味があるなどというのは、ずいぶんと横着な後付けの理屈だろう。 ピピロッティリストの映像作品でたとえば「EVER is OVER ALL」等は最初見たとき(栃木だったか)に平日だったこともあり、何度も何度も見て、会場を去りがたかった思いが残っている。マリーナアブラモビッチの丸亀の展示でも同じような思いを得た。あるいは以前の横浜トリエンナーレに出ていた、ジャーナリストだった父親の残した世界中の映像を編集した、という作品もじっくり見てみたいものだった。(※2015年現在ではこうしたビデオ作品もインターネットの検索によって鑑賞することができる。) 作られた作品について、作家はどう考えるのだろうか。ポピュラーミュージックをめぐっては、その音楽について、ミュージックビデオについて、いかに沢山売ろうかという動機が働く、なぜ現代美術の映像作品やインスタレーションについてはそのような発想とは別の原理が作動するのだろうか。 単純にいえば、大量に売れないので、少数を高額で売るしかない。ということだろう。要するに、ポピュラーミュージックとは別の、しかし、同じ資本主義(固有性が貨幣の一般性によって一度平滑化された上で構築された条理による世界)に属する発現形態をとっている。 しかし、作品を作る、文章を書くというような行為にはどこかそれが、限りない遠くまで届き、世界に変化を与えるという願いがこめられてはいないだろうか。そしてそれにはどうしても貨幣による「経済原則」自体を相対化し、むしろそれを粉砕しようとする方向性が含まれてしまっており、それは「著作権」の概念と対立している。 まるで観光地での記念写真の様に、作品に群がり子供を入れて撮影する上海の美術館での光景はとてもすがすがしく、開放感にあふれていた。 |