「倫理」が終着点ではなく、その動態の分析が起点である。
2018年10月18日
2020年7月10日
2018/10/18
2018/10/18 東京新聞 油圧式免震・制振装置のメーカーであるKYDが検査データ改ざん問題していた問題。(他にも、ゴム式の免振装置、車のデータ改ざんなど一流とされていた企業における技術的偽装が次々と明らかになっていたという背景の中での記事)
2面 核心 揺らぐ信頼と安全性 KYDショック 全国に 「技術者の倫理観問題」
2面 核心 揺らぐ信頼と安全性 KYDショック 全国に 「技術者の倫理観問題」
教授は「問題はむしろ、法令通り納品しなかった技術者の倫理観。トップメーカーでこういう事態が続くと製造業の信頼が落ちる」と指摘。
⇒その倫理がどのように作動するのか、どのような力学が動作してそのような行動をもたらすのか、その力学を分析することが課題のはず。ニーチェが主体についてそれは行動の起点では無く、むしろある力動の結果への呼び名に過ぎないと喝破*して以降、ある主体を問題解決の起点と終点にする思考はその不十分性を問われ続けている。
*「〈我〉とは、思考する働きそのものによって作られる一個の綜合物にすぎないのではないか」『善悪の彼岸』信田正三訳 ちくま学芸文庫 p102、
*「一般の民衆が稲妻をその閃光(せんこう)から切りはなし、後者(閃光)を稲妻と呼ばれる主体の活動であり作用であると考える」ように「民衆道徳もまた強さを強さの現れから切りはなし、あたかも強さを現わすも現わさないも自由自在といった、超然たる基体が強者の背後にあるかのごとく思いなす。がしかし、そのような基体は存在しない。活動、作用、生成の背後にはいかなる〈存在〉もない、〈活動者〉とは、単に想像によって活動に付加されたものにすぎない、――活動がすべてである」『道徳の系譜』信田正三訳 ちくま学芸文庫 p404
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