ニーチェ:その逆が真理ではないのか、つまり〈考える〉というのが制約するものであって〈我〉とは制約されたものでないのか
1994年1月1日
2021年8月7日
以前にはひとは、文法と文法上の主語を信ずるように〈霊魂〉というものを信じていた。そのいうところによれば、〈我〉とは制約するものであり、〈考える〉とは客語であって制約されたものである、――思考というものは一つの働きであって、それには原因としての一つの主語が考えられなくてはならない。今日ではひとは、おどろくべき執勘さと狡智とをもって、この網からぬけでられないものかどうかと試みている.――また、もしかしたらその逆が真理ではないのか、つまり〈考える〉というのが制約するものであって〈我〉とは制約されたものでないのか、したがって〈我〉とは、思考する働きそのものによって作られる一個の綜合物にすぎないのではないのか、と試してみている。カントが結局において立証しようとしたのは、主体からして主体を証明することはできない――また客体を証明することもできない、ということであった。個別的主体すなわち〈霊魂〉という仮象的存在の可能性は、彼にとって必ずしも縁遠いものではなかったであろう。
『善悪の彼岸』信田正三訳 ちくま学芸文庫 1993 p102
ー記事をシェアするー