ただ、この「今」を ―国鉄詩人連盟に礼を尽くす―
「国鉄詩人」300号記念号 2026年9月1日より
起点としての「国鉄詩人連盟」
一九七二年、同学年の人より半年遅れて国鉄に入ったのは、、父の死後、まっとうな職に就いてくれと懇願する母に「外で働く仕事がしたい」と言ったのがきっかけだった。
八月、間もなく死ぬ入院中の父を一人で見舞った帰り、水田が広がる鶴見川に沿って走る、茶色い横浜線電車のロングシートに横座りして、開放した窓に肘をかけ、轟音と風を真っ向から顔に受けて進んでいた。電車は草いきれする線路沿いの緑を激しく波打たせながら驀進する。その一瞬、ああ、こういう場所で働きたい、と強く思った。
さっそく母は、以前隣に住んでいて私の家族と同様、田園都市線の延伸のため立ち退いていた川崎市のT氏の家に電話した。T氏は当時国鉄職員だったから、入社試験があったら知らせてくれという依頼だった。確か当時は毎年何千人もの高卒者を国鉄は採用していたのではなかったか。
十一月に臨時雇用員として横浜線橋本駅の駅務掛として働き出し、同学年や少し上の仲間達と知り合った。準職員期間を経て、翌年九月に構内作業掛(貨車の入れ替え作業員)として正社員となった。その後、列車掛(貨物列車の検査と車掌業務)の採用試験を受け、全寮制で四ヶ月半の充実した企業内教育の後、一九七六年八王子客貨車区の列車掛となった。
国鉄の駅での二四時間勤務、乗務員として夜間が多い貨物列車の勤務は、平日昼間の自由時間をもたらし、このことは大きな意味を持っていた。神保町の古書店を回ること、組合の会議に出ること、本を読み、何かを書き付けること。
一九七六年暮れ、職場に配布される「国労文化」という雑誌に掲載された文芸年度賞募集の詩部門に締め切りギリギリで応募したのが、すべての始まりとなった。
当時の事を一九九七年に次のように書いた。
一九七六年の暮れ、貨物列車の乗務員として初めて一人立ちしたころ、心細さの中で、その二十二歳の「私」がなぜ詩[冬空の下で]を書いたのかは、はっきりしている。労働組合のスローガンでもなく、「会社」のいう「合理化」の論理でもなく、飲み屋での愚痴でもなく、なおかつ「我々」として生きるために、どんな言葉が生み出せるのか、どんな「我々」が可能なのか、この二十数万人の(当時の国労という)仲間の中に、私と同じように考えている者を見いだせるのかどうか、賭けたのである。それは「仲間」を探しに行く旅ではなく、むしろ「仲間」であることを構成しに行く決意の「手紙」だった。海に投げ入れた小瓶は「国労文化」の詩の選者([乾宏氏]国鉄詩人連盟会員)に拾われ、数ヶ月後、[当時国労本部職員だった太田君子氏の]鉄道電話での入会勧誘によって私は「国鉄詩人連盟会員」となったのだった。 [ ]内加筆
「国鉄詩人」206号一九九七年九月
そして「国鉄詩人連盟」における人の繋がりこそ、「私」の現在につながっている。
この五〇年間の中で私は九編の詩しか書いていない。書くことには、書けといってくれる人、発表する場所、考える「時間」が必要だ。詩においては貧弱であったが、他の散文を書く動機の「起点」となってくれたのもやはり「国鉄詩人連盟」だった。
詩人連盟に注目してくれていた「思想運動」と言うグループに書かせてもらったことがある。当時知己を得た編集者の志真斗美恵氏とその五〇年後に再び顔を合わせ語り合うことがあるとは思いもしなかった。
一九七八年初めて参加した潮来での詩人大会で私と同年の新会員、宇仁宏幸氏(ペンネーム西野健伸)と出会った。彼は国鉄の本社技術系採用組で本来高卒現場組の私と出合うことはないのだが、「国鉄詩人連盟」がその出会いを可能にした。彼が学生時代、国労本部の詩人連盟会員だったゆきゆきえ(福田玲三)氏と同じ政治グループに属していた縁だと聞いた。
後に、彼は妻が司法試験に合格すると、交代して大学院で経済学を研究し、母校京都大学で経済学部の教員となるのだが、関西に帰った彼から、彼が当時関係していた「大阪哲学学校」「季報唯物論研究」に国鉄分割民営化反対闘争の経験について書くように慫慂してもらった。
私の方は国鉄清算事業団を経て某国立大学の事務職員になったものの、先妻に死なれてしまい茫然としていた一九八九年のことだった。それをなんとか書き上げ(注1)、その後も縁を得た「季報 唯物論研究」から何回か原稿課題をあたえられたこと=思考を強制されたことは大きな恵であった。その「思考経験」は過去ではなく、現在そのものになっているのだから。
だから、「国鉄詩人連盟」は「起点」なのである。
説明される「国鉄詩人連盟」と
生きられた「国鉄詩人連盟」
既に言われていることではあるが、敗戦後すぐに組織された「国鉄詩人連盟」は戦前の鉄道雑誌の文芸欄の選考者(近藤東氏)と投稿者(鈴木茂正=岡亮太郎氏)の出会いから始まった(注2)。
確かにそれは、後に詩人連盟内でも議論になった『声の祝祭 日本近代詩と戦争』坪井秀人1997刊、が言うように戦前と戦後の明確な思想的断絶はなく、他のすべての運動と同じく、ある意味で地続きで始まったのかもしれない。その事について国鉄詩人連盟内でも「産報詩」と「勤労詩」が変換可能ではないかという指摘も確かにあったし、また、生活派と叙情派というような分割と論争もあった。
しかし、それらの論議とは関係無く、書かれた作品は作品として確かにそこにかさねられてきたのである。それらの膨大な蓄積を前に、何か別の価値がそこに見いだせるはずだ、と、私は考えていた。そのために、「遅れてきた私」は「国鉄詩人連盟」の作品すべてを、後世に残さなくてはならない、と言うような切迫した思いに焦燥した。二〇〇四年、「国鉄詩人」へのGHQによる検閲について調べていた私は(注3)、そのような思いから、代表であった岡亮太郎氏に次のような手紙を送った。
二〇〇四年十月十六日
詩人連盟にかかわるご教示と国鉄詩人連盟関連資料の閲覧複写のお願い
詩人連盟はすでに58年の歴史をもち、労働者の文化活動としてその存在は無視できないものになっているはずです。しかし、最近、詩人連盟に関する資料を調査し始めましたところ、「国鉄詩人」ですら、公的にはすべてが保存されているわけではないことがわかりました。(私の調査不足であることを祈りますが)。詩人連盟を歴史の中にしっかりと位置づけ、またその意味について、今後生きることになる人びとにも伝えていくためには、どうしても資料の整理、保存が必要です。その基礎作業のために、まず岡さんが保存されている資料(雑誌、詩集等々)について、書誌を作成したいと考えます。
また、このような運動を築きあげてきた方々はどのような思いでこの活動に熱情を捧げたのでしょうか。出来事の年表ではなくその方たちの思い、特に、職場での仕事や労組との関係など、具体的な関係性の中で、国鉄詩人連盟をその方たちはどのように位置づけておられたのでしょうか。特に岡さんは詩人連盟の中心としてこの間ずっと活動されてこられました。仕事の面では管理部といういわば管理職的な位置から、隅田川駅の国労分会役員としても活動されてこられました。その中で、国鉄詩人はどのようなものだったのでしょうか。詩人連盟と共に歩まれた岡さんの「人生」についてぜひお聞きしたいと考えます。
これは既に妻の介護や地元自治会の活動にも忙殺されていた岡氏には叶うはずもなく、十二月の電話インタビューだけが残された。
岡氏の死後、福田玲三氏とご自宅を訪問し、手元にはない蔵書を頂いてきたが、それから二〇年近く経つというのにそれらをしかるべき場所に納めるという作業が手についていない。
もうひと方、約束を果たせなかった人がいる、今年四月に亡くなった酒井喜美子氏である。
氏は一九四九年に国鉄大崎被服工場に就職し、工場廃止後大井工場に転勤した方であり、大崎工場での手書き回覧詩誌「たんぽぽ詩集」は「現代思想」2007年12月臨時増刊号の総特集「戦後民衆精神史」でも取り上げられ、私も酒井さんがお持ちだった現存する詩集すべてをスキャンさせて頂いた。私は一九五〇年代彼女たちが大崎工場内に保育所を作り運営していたことに新鮮な驚きを感じ、子どもたちも鉢巻きをして工場廃止反対を訴えていた写真なども頂いた。二〇一三年八月のインタビューでは「たんぽぽ詩集」創刊のいきさつなど、一九五〇年代の「青春」に興味が尽きなかったが、彼女はこれは書いちゃダメ、私が書くんだからといたずらっぽく言っていた。これも工場内保育所や当時の女性工員としての話などをまとめて「国鉄詩人」に載せると約束していながら、果たせなかった。昨年彼女が入居していた富士山を目前にした静岡の老人ホームにお邪魔しお詫びしたが、伝わったかどうかはわからない。
こうした「国鉄詩人連盟」について残さなくては、と言う焦燥のようなものについて、またそれに手が付かないことについて、最近ひとつの回答のようなものが見えてきた。
「私」の「焦燥」は論理的な誤り、未熟が原因だったのではないか。
かつて、会ったこともない古い国鉄詩人の作品を読んでいて、一瞬その美しさに打たれることがあった。バス車掌の彼の作品だった。しかし、それが誰の何という作品だったかを今は思い出せない。たぶん私が「国鉄詩人連盟」のすべての作品を残したい、残さなくてはならない、と考えたのは、いわばそうした「美しさ」を引き起こしたのはある具体的な作品、言葉だったのだから、その「もの」を私は後世のためにすべて保存しなければならない、という義務感だったのではないか。
たとえば二〇年前の岡氏への問は彼の具体的な経験がどうであったか、どう思っていたか、要するに「彼が何であったか」という「設問」とそれへの「回答」の言葉を求める形式内での語りかけであり、酒井氏に私が聞きたかったことも事業場内保育所がどのように作られたか、その時の工場内での組合と当局、女性と男性の行動の違いなど、同じように具体的な説明を精緻化する回答を期待していた。そしてそれを残そうとしていた。いわば外から「国鉄詩人連盟」を「対象物」として観察してそれを記述しようとする「体勢」での行動だったと言える。
しかし「対象」として設定してしまうこと自体が、決定的な矛盾ではなかったのか。
「対象」として、当時の岡氏や酒井氏を「観察」している限り、「対象」とは別の何かとしての「私」が成立していることになってしまう。
別の言い方をすれば、「国鉄詩人連盟」の八〇年間の作品群や会員の「人生」までを、「自ら」とは切り離された、「過去」として対象物化してしまったために、「今」とは絶対に別のものとしてしかそれらが成立できなくなり、理解しようとすればするほど、到達不能性が浮上してくるという、矛盾が、「焦燥感」だったのではないのか。
もっと一般化すれば、「過去」と「現在」を別のものとして考えること自体がそれを招いていたのではないか。
しかし、こう考えることは出来ないだろうか。
「過去」と「現在」と言う区分は誤っており、ひとつの「現在」だけがあるのではないか。すべての言葉がひとつの思考空間内での出来事であり、特異点などはない。その観点からすれば、「戦争体験者がいなくなるからその継承が大事です」、と言う言い方は戦争体験を神秘化してしまい、自らとは別の事柄として「戦争」を箱詰めしてしまっていないだろうか。「自らの仲間を守るという願い」が、どのようにして互いに「殺し合うことを正義と規定する」ように遷移していくのか、そのメビウスの輪についての徹底した思考だけが必要な事であり、それが現在では万人の課題ではないのか。
今ここで生き、読み、会話し、行動しているとすれば、それは「説明」なしにすでに「過去」を内包してしまった「現在」がそこで生きられていることではないのか。
もし、「国鉄詩人連盟」を「理解」するのに、すべての作品を読まねばならないとすればもちろんそれは物理的に不可能だ。それでも「国鉄詩人連盟は○○だ」、と言う言い方が可能であるのは、物事を対象物化して「それ」についていかに詳細に説明のための「言葉」を紡いでいくかと言う方向性と異なり、その方向性を導いている「対象VS私」と言う構図を脱し、生きるということ自体が生みだし続ける「言葉」、という別の方向性が可能だからではないのか。
そしてその方向性こそが、八十年間継続している「国鉄詩人連盟」について、何か私が言うことが出来る場所だ。連盟で出会った、亡くなった何人もの方の面影が既に「私」には含まれている。その方達の「言葉」をまた今読むことが出来る。それはその、読むということのたびごとに異なる経験であり、この「今」の経験である。
国立国会図書館では既に一九八〇年代初めの「国鉄詩人連盟」の作品もデジタルデータとして自宅で誰もが読めるようになっている。五〇年後、一〇〇年後にはすべての「国鉄詩人連盟」の作品も誰もが読めるものになっている。後世の者達がそこから読み取るのは、書かれたその時代に生きた者達の言葉が、「今」それを読む者にとっても同じ「現実」であること、その喜びに満ちた、ひとつの「生」であってほしい。
現在私の小部屋のガラス入り書棚の区切られた一角は、一九七六年四月の春闘ストライキ時に撮影した国労橋本駅分会の面々の記念写真、(皆、赤腕章で楽しそうに線路に腰掛けたり、枕木で作られた柵の上に乗っている)と、NゲージのEF64とDE10が引く二つの短い貨物列車編成、そして「第35回全国客貨車協議会定期委員会」と記された九谷焼の湯飲み茶碗による展示コーナーになっている。もちろん貨物列車の最後部には私が乗務していた緩急車ヨ8000とヨ5000形式が連結されている。これは「思い出」としてではなく、「私」の「錨」(アンカー)としての構成展示(インスタレーション)なのである。
注1「雇用という言説をめぐって」
季報唯物論研究 42号 1992.6.1 「日本の<保守>を哲学する」 大阪哲学学校編著 三一書房 1994刊 所収
注2「国鉄詩人連盟十年史」1959刊
※国立国会図書館デジタルアーカイブで誰でも自宅から閲覧可能。
注3「プランゲ文庫」の国鉄詩人連盟
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