「基体性」と「自解性」
「私」というものをどうしても名指して言説を生成せざるを得ないのであれば、その「私」が「基体性」であるか「自解性」であるかが分岐点となる。
もっといえば、これは、全ての『名詞』に適用されることだ。
名指しが「対象」と「自己」という編成を成立させるものであるとき「対象」は「基体」に止まる。「名詞」が、ある思考による理解のための手がかりとして仮設されたものであることを組み込んで呼ばれるとき、それは「自解性」を持ち、「自己」は世界に広がっており、全ては「内在」の相において語られ始める。
追記 2024/10/22
名詞の配列規則について
その名詞について相反する述語が可能な場合、(それは良いとそれは悪い)、そのことは矛盾と呼ばれて何か特異な事象や、意見の相違などとして放置されるべきではない。
それは、その名詞(例えば日本)とその対比として成立している別の諸名詞による群・グループ(例えば中国、アメリカ、ロシアなどなど。それらは「諸・国名」という弁別空間を成している)、その空間内の諸名詞は、全く別の論理空間ではそれらの諸名詞の輪郭が完全に無効化されて消失し、全く別の輪郭の名詞による陳述に取って代わられなければ整合性を保てない、ということを意味している。
ある一つの名詞について良いと悪いを同時に成立させることが可能なとき、陳述はその名詞への規定として語られるべきではなく、全く別の論理空間で語られるべきであることを示しているだけであり、表現されようとすることにその名詞を使うことの不適切が「矛盾」として認識されているのである。
参照:1993年8月 「我々」という編成に向けて 四つの断章 一、「もの」と「関係」