性「暴力」は男/女の関数から別の空間に一般化されなくてはならない。
2023/12/10 赤旗紙に掲載されていた野坂祐子氏による書評、『男性の性暴力被害』集英社新書 宮崎浩一、西岡真由美 著 の文言から派生したメモ
「被害に遭うのは女だけじゃない」という言説が女性の性暴力被害を矮小化、加害者を擁護するバックラッシュにつながることを指摘している。
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むしろ、《男女ともに起こりうる》という事は、女、男に共通の一つの支配形態、暴力形態として、従来「女」の問題として捉えられてきたことを一般化して理解するための転回のきっかけにすることも出来るはずだ。
ギリシャ時代の年配の男から若い男への「少年愛」は、その対象であった(従属性として位置付けられた)若い男がいかにして成人の市民(従属しない自立した者)として認められる存在になることが出来るのか、という問題を含む、とミシェル・フーコーがどこかで書いていた、と記憶する。
これは男/女においても、男/男、女/女、何/何、であっても、(「主体」間の)一対性として考えられたものとしての「性」をめぐる、「支配と被支配」をめぐる、問題そのものである。
50年以上前、「抱かれる女から抱く女へ」というような日本語のスローガンがあった。これも被支配からの脱却という願望の表現ではあるが、それは、その願望を生みだした、「能動と受動の一対性」という空間自体を問題化する所まで、極限化されなくてはならなかったはずである。
「支配」とはどのような構造なのか、「権力」とはどのようにして「自由な主体」を通してこそ機能するのか、その問は、例えば「性被害者」がその「被害」を「自己という存在」への「侵犯」という絶対的な「決定性」としての理解(基体化)から、苦悩を通り抜け、そのような「絶対的な被害を受けた者」としての「自己」という規定自体が、解体可能な構造であったという理解に至ることが、勝利であり、いまだ基体化された主体であり続ける「加害者」の「主体」の分解・霧散に至る道であることを示している。
「性被害」は個別化され、基体化された限りでの「主体」が必ず持つ、「権力」、「支配/被支配」といった、構造自体のもたらす現象であり、その探求は「平等」な「各主体」の無数の併置ではなく、「個人」やその系である限りでの「主体」を生成してしまうこともある「一つの沃野」としての「我々」という、基体化されない動態に至ることになるだろう。
かつて、「愛のコリーダ」という日本映画に触れて、性器が個人の所有物ではなく、共有物として描かれていたことが面白かったとミシェル・フーコーは述べていたように思う。「器官なき身体」は手、足、目、耳、といった構造ではなく、世界の物質に広がっており、それが「個体的な主体」を生成することは出来ない。