「権力」ー「自己」
2023/04/27ー2023/04/29
「縮約」もしくは「超越」としての「自己」や「神」などは、論理的に未熟であるために「自解性」をもたない、「基体性」にとどまっている。
「自解性」は「自己循環」を防ぐために必要な要素。cf.EXCELでの循環参照エラー
「権力」とは限界づけられたものとしての「自己」を生成させる技術のことを言う。
cf.フーコー
権力とは、個々の人々のあいだの関係の一つの特殊な型に他ならない。‥‥‥権力というものの弁別特徴は、ある人々が他の人々の行いを多少とも完全に---だが、けっして徹底的もしくは強制的な仕方によってではなく---決定しうるという点にある。
ある人間が鎖でつながれて殴られる場合、その者は他人から課せられる力に服するのであり、権力にではないのである。ところが、その者の最後の手段が口をつむいで秘密を守ること、死を選ぶことであるかもしれないのに、その者をしゃべるように仕向けることができるのは、その者を何らかの仕方で行動するように駆り立てたからである。彼の自由は権力に屈服したのだ。彼は統治支配に屈したのだ。
ひとりの人間が、その自由がどんなに限られたものであるにせよ自由でありうる場合、権力は彼を統治支配に服従させることができる。潜勢的な形での拒否もしくは反抗がなければ権力は存在しないのである。
人間による人間の統治支配は、何らかの形式の合理性を前提とするのであって、暴力という道具を前提とするのではない。
問題として検討すべきは眼前に存在する合理性の形式である。‥‥‥権力の諸関係はどのように合理化されているか?。
国家はその発端以来、個別化を行うと同時に全体主義的であった‥‥‥。個人とその利害を国家に対置することは、共同体とその要求を国家に要求するのと全く同様に危険である。
個別化と全体化が政治的合理性の不可欠な所産である。解放が起こりうるのは、もっぱらこれら二つの所産のいずれかに対する攻撃からではなく、政治的合理性の根源そのものに対する攻撃からである。
<古い読書の傍線から>
以上《全体的かつ個別的に(政治理性批判をめざして)》『現代思想』1987/3 田村俶 訳