「ウクライナ侵略」への日本語言説について
K氏へのメールから
ありがとうございます。
教えてもらったチョムスキーも伊勢崎さんも既に読んでいましたが、とにかく、「ウクライナ」VS「ロシア」の二項対立で芸能人や評論家が、「良者」と「悪者」の小学生並の世界観で解説する日本語での報道には呆然としてきました。
クーリエ・ジャポンで読んだものの中にこのようなものがありました。
ワシントンポスト 4/5
米アメリカン大学のキース・ダーデン政治学教授は、ゼレンスキーについてこう評する。
「彼はこの戦争を続けるために強烈なナショナリズムの感情に頼ってきたが、それこそがこの戦争を終わらせることを極めて難しくしている。究極のジレンマですよ」
米シンクタンク「ケナン研究所」でウクライナ政治を専門とするミハイル・ミナコフはこう指摘する。
「いまは誰もが抵抗したがっています。仮に勝てなかったとしても、できるかぎりロシアを叩きのめしてやろうという気概です。そこでゼレンスキーはある意味、板挟み状態です。カリスマ性を保ちながらも解決策を見つけなくてはならない。そうやっていまの地位にとどまるにはどうすればいいか、その道を模索しているのです」
アルジャジーラ他をソースにクーリエジャポンがまとめた記事 3/16
表題 :ウクライナ侵攻で浮き彫りになるジェンダーの問題
この戦争で世界はまた逆戻りするのか─政治と報道から消える女性たちの姿
―― 以下抜粋 ――――
結束を強め、断固としてロシアに屈しない国民の姿はたしかに、驚くべきものだ。報道を見ていれば思わず応援したくなる人もいるだろう。だが強制的に参戦させられ、人を殺したことがない民間人が武器を手に、人を殺さざるを得ない状況にあることに疑問を呈する声はあまり聞かれない。
「この戦争が旧態依然のジェンダーロールを固定させ、その過程であらゆるジェンダーの人々にひどい害を与えている状況を、私たちは目にしている。ウクライナにおける男性の強制的な総動員令は、男性は防衛者であり戦士、女性は脆く保護を必要とする者という二項対立を復活させている」
さらに、ウクライナ国民における性的マイノリティの問題についても同紙は指摘している。たとえば、書類上は男性として認識されているトランス女性は国境で止められ、出国を阻まれているのだという。写真や動画ではわからない方法で、戦争という巨大な暴力に苦しめられている人たちが大勢いることは想像に難くない。
「アルジャジーラ」は西側諸国の制裁におけるジェンダー意識の欠落も指摘している。ウクライナの同盟国によってロシアに下された制裁の影響を、「最初は裕福で国際志向の中産階級が最も痛感するかもしれない。だがやがて経済が悪化すると、すでに最も弱い立場にある人々が、最も傷つくことになる」。
アメリカによる制裁が下ったことで経済的に破綻しているイランとベネズエラに言及しつつ、同紙はこうした措置が「女性の労働力参加とリーダーシップを侵食し、フェミニスト活動を停止させる。そして政府が男性的プロパガンダを倍加させ、家父長制を後押しするだろう」と続けた。
また、この戦争における政治に女性の姿がないことも指摘している。たしかに、ゼレンスキー大統領が動画で共有している内閣の様子は男性ばかりだ。会談の場が設けられても、ほとんどの国のリーダーが男性だ。こうした重要な場面から「フェミニストとしての視点を持った女性たちが消えている」という。
「ロシアやその他の国のフェミニストたちも戦争に参加せざるを得なくなっている。それなのに彼女たちはこの紛争の国レベル、世界レベルでの意思決定において、ほとんど隅に追いやられているのだ」
日進月歩だが、世界はかつてのあり方から随分変わってきたように思える。だがウクライナ侵攻は、各国がいかに旧来の行動様式に頼るかを浮き彫りにした。
パンデミックと気候変動の危機のさなかにおいて「基本的なサービスの提供や、環境にやさしい経済システムを再構築するためには捻出できなかった費用が、防衛費として迅速にあてられた」と「アルジャジーラ」は書く。ドイツのショルツ首相は、軍事力増強のために1000億ユーロの基金を直ちに設立している。そして今後数年間は防衛費を持続的に増加させることを発表し、大きな拍手を浴びた。
「このような軍備支出競争、男女平等を損なうことが確実と思われる行動、軍国主義的な男らしさが中心の世界は、本当に私たちが望む未来なのだろうか」と「アルジャジーラ」は問いを投げかける。
「いますぐに代替案を想像することは不可能に思える。危機の真っ只中にあって、聞こえる軍靴は圧倒的である。行動する前に考え、分析し、反省する時間はいま、贅沢なもののように思われる。しかし、私たちはこれまで何度もこのような状況に陥っており、異なる方法で対応することが不可欠なのだ」
ロシアの論理は「大日本帝国」と同じであり、東京大空襲や原爆、南京、パレスチナなど民間人を直接殺した「非人道的」殺人もいまだ世界に溢れかえっており、残虐性も女性への戦時中暴行も他と同じであり、それを知らないふりのカマトトぶって「こんな悲惨なことが現在起こるなんて」とか、ウクライナに兵器を送って戦争を続けさせよう、という言説は正気の沙汰とは思えません。ネトウヨの思考はこれらの事態によって、自らの思考をふりかえらざるを得ないはずなのですが・・・。
日本語は、ロシア軍のウクライナ侵攻、虐殺などについて、その80年前の自らの支配的だった思想と、戦場で行ってきたことを重ね合わせ、省みながら、言葉を発しなくてはならないはずだとおもいます。
二項対立での世界理解自体が、武力や経済制裁による解決が可能だ、という論理的錯誤を招くのだと思います。
迷ったときには「だれの子どもも殺させない」と言う原則を突き詰めたらどういう行動ができるのか、と考えればいいと思っています。それは「二項対立による世界理解」自体を解体し、全く別の分割線を世界に引くことだと思います。
「女・子ども」や「民間人」を殺すことを「非人道的」だという非難は、なぜ、「兵士」にまで拡張されないのでしょうか。
「兵士」が殺し合うのは、なぜ「非人道的」と呼ばれないのか、なぜ国家は「女・子どもや民間人」の死をその数が多いほど敵を非難できるゲームのポイントのように取り扱う一方で、「兵士」の死は「英雄」として儀式を行うのか。
男だって、兵士だって、殺し、殺されてはいけないのです。
この問いは、18世紀のアメリカ革命やフランス革命で、「市民」や「people」、「人間」と言う概念が生まれたとき、その中には「女」や「先住民」や「黒人」が含まれておらず、その事への闘争によって、次第にそれらを組み込まざるを得なくなってきた歴史の延長上にある問いのひとつだと思います。
「市民」や「人間」という「主体」が生まれてから150年、現在では400年も前の植民地支配や、「女」に対する支配が俎上に登るようになってきましたし、少しずつですが、世の中は論理的に整合する方向へ進んでいると私は考えています。兵士が殺し合うのも「非人道的」だという考えは、世界人権宣言や、日本国憲法9条、「だれの子どもも殺させない」と言うスローガンに込められていると思います。
学校で習う、人類が地球上に出現して、たぶんアフリカから地球上に展開していったという歴史を、自らに適用して、「私たち」が何であるのか、と考えなくてはならないと思っています。現在、「我々」は別々の諸「国民」であるという存在規定により、その諸「国民」が殺し合ったりするような「自己」規定の段階にあり、それは如何にして形成されてきたのか、どのような論理的錯誤でそのような「自己意識」を持つようになったのか、それはどのようにして終わるか、と言うのが現在の究極的な問題であり、それらについては、20世紀の思想家たちが、「人間」「自己」「主体」という概念自体の歴史と、その構造を分析してきました。
「真理」とは結局、論理的整合性の事であり、科学における思考の展開の仕方をふりかえればすぐ分かるように、一つの現象に対して、対立し、並立不可能と思われた二つの根拠を持った説明理論があったとすれば、それらのどちらかが正しいのではなく、そうした二つの理論の成立を説明できる、新たな理論の発明により、従来の理論がそれぞれ解体される、そのような生成過程をこそ「真理」と呼ぶべきだと思えます。
ウクライナ、ロシア、アメリカ、日本などのそれぞれの「自己同一性」を保持したまま、皆それぞれ違うけど仲良くしようね、ではなく、そのような諸「自己同一性」を成立させてきた、一つの「我々」への移行が生成されなくてはならないと思っています。
今回の戦争の様々な映像はあらためて「戦争」とはどういうことかをまざまざと見せつけており、今後の展開は、我々を従前どおりの「国民」意識に留め置き、それを強化しようとする思考と、それらの「国民」意識自体を分解し、<「敵」が無い> という文字通りの意味で、無「敵」の「我々」という意識へ向かおうとする思考との論理的な闘争になるだろう、また、そうしなければならない、と思っています。
武器で殺すことによって、その人の喋ること書くことは終わらせることができますが、その殺された人の思考は抹殺することはできず、全く問題の解決にはなっていません。「経済制裁」で何かを動かそうとするのも、対立する思考脈路の展開によって新たなものを作り出すのではなく、思考とは別の脈路によって人を操作しようということですから、「武力」と同じ位相です。
いずれにせよ、この日本における悲惨な言説の状況には、何事か加えなくてはならないと思っています。