2020年の香港の中学生についての報道と1968年の日本の高校生に関する言説
2020年6月14日
2020年9月16日
2020/06/14
1968年、日本語では次のような議論があった。
「神奈川の高校教育の変容」二見修次 2007神奈川新聞社出版部 自費出版 から引用
p84神奈川県では、四十三年六月、「生徒指導の推進について」という県教育長通知を出している。・・中略・・この通知の中で、生徒の政治活動の指導については次のように述べている。良識ある公民たるに必要な政治的教養は教育上これを尊重しなければならないが、学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない、とされている。高校生は、心身の発達の過程にあるので特定の政治的立場に立って行動するようなこと、たとえば政党や政治的団体に関係するようなことは望ましくない。この趣旨にそって、教育上慎重な指導がなされるべきである。
p85神奈川県では、県議会においても高校生の政治活動について討論が行われている。保守系の議員は、九月定例会において次のように県当局に質問している。・・中略・・本年六月十四日、教育長は神奈川県立校長あてに出された生徒指導の推進について、六項目の中で特に生徒の政治活動に留意することを指摘しておられますが、高校生の政治参加は是か非か、所見と今後の対策を御明示願いたい。これに対して、県教育長は、ほぼ次のように答えている。もともと学校におきます政治教育の基本的なあり方は、教育基本法第八条に明示されておりますけれども、良識ある公民たるに必要な政治的教養を深めることであります。具体的な指導の問題といたしましては現実の諸問題につきまして高校生がその考え方なり、あるいは解決の基礎となる基本的事項についての理解を深めていく。そうして公正な判断や健全な批判力を養っていくことが高校における政治教育の指導の基本であろうと思います。高校生は年齢と申しますか精神的発達段階にある年齢から申しまして、判断なり、思慮なりがまだ未熟な段階にございます。そのため理解力とか批判力を養うことに重点をおきまして具体的な行動に走ることは教育学的な立場からいっても適当でないと考えております。
1969年3月の県会議会での議論が以下の様に紹介されている。
p88・・略・・三月四日、県立鶴見高校で安保破棄、沖縄返還のための3.16集会への参加を呼びかけたビラが配られたところ、無届けでビラを配布することは校則違反だという事例が報告されると、数日ならずして県下各高校に生徒指導関係資料なるものが配られました。その中では、さらに、生徒の連合組織をつくることは禁止されているとか、このような集会に参加してはならないなど、生徒の自主的な活動を一方的に禁止しております。これは、教育基本法第八条の良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならないという精神に反するものであります。このような不当な言明を直ちに撤回し、高校生の人格を認め、自主性を尊重することこそ教育行政の責任者のなすべきことではないでしょうか。これに対して、県教育長は次のように答弁している。教育基本法の第八条には良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならないという規定がございますが、これについては全く同感であります。ただ同じく同条第二項に政治的な中立を教育は守らなければならぬということも厳然とうたっているわけであります。
そこで先般も申し上げましたが、あくまでも高校生は心身の発達の段階からいたしましてきわめて思慮・判断が未熟な段階であります。したがって、これらの生徒の政治活動につきましてこれが外部からいろいろな働きかけがあるわけであります。
こういうものについて、私ども学校の現場のもの、また、教育委員会がこれらについて高等学校の生徒の立場というものを守るということは当然必要であります
一方で次のような報道がある。
2020年6月14日 東京新聞
【上海=白山泉】中国政府が香港に導入を目指す「国家安全法」に反対の意志を示すため、香港の学生団体が二十日に計画している授業ボイコット実施の是非を問う投票に、香港政府が介入を強めている。投票は中高生が行うが、政府は中高校の校長に投票や授業ボイコットに生徒を参加させないよう要求、反対の動きを封じ込めようとする圧力が教育の世界にも及んでいる。
香港メディアによると、投票は中高生一万人の参加を目標にし、主にオンラインで行われる。六割以上が賛成すれば後日、授業ボイコットを実施する。投票の呼び掛け人は「投票は世論を示す方法で、生徒が参加することはまっとうなことだ」と主張する。
これに対し香港政府の楊潤雄(ようじゅんゆう)教育局長は十日、中高校の校長に書簡を送り「生徒が投票やボイコットに参加しないよう、適切な措置を講じる責任が学校にはある」と伝えた。楊氏は校内で民主化を求めるスローガンを叫んだ生徒の処罰も求め、教員自身のストライキも処分対象になるとした。
・・後略・・
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以上から
1968-69年の言説は、教育という範疇に閉じ込めることにより、政治性の平面での対抗性は「去勢」される、と考えられていたことがわかる。
逆に言えば、「政治」は「教育」をこえており、それを自分達は独占しているのであり、その範疇外として「子ども」が存在していると考えていることになる。(かつて、「奴隷」や、「女」がそうであったように)。
それは、18歳選挙権となった現在では、18歳の高校生が存在してしまうために、切開されてしまい、2重性の使い分けで弥縫することとなっている。。
その分裂について、彼らに思考を強いる、実際行動が待たれている。
一方香港政府は、こうした日本では主流である、中高生は未熟だから具体的「政治」はダメよ、という論理を、少なくとも私が読むことができた僅かな日本文からは主題としては主張していないようであり、中高生の主張内容そのものに、ガチで対抗しているように見える。
もし香港政府が1968年、あるいは現在の日本でのように、高校生未熟論で彼らを抑圧する論理を使用していれば、日本において、我が身をふりかえる、思考を加速させるもっと強い力を持っただろう。
1968年に日本で高校生の「政治運動」に反対した思考、すなわち、「(高校生は)判断なり、思慮なりがまだ未熟な段階にございます。そのため理解力 とか批判力を養うことに重点をおきまして具体的な行動に走ることは教育学的な立場からいっても 適当でないと考えております。」:1968年9月神奈川県教育長、と主張していた思考が、2020年の香港の中高生の行動には反対せずに何も言わず、あるいは、それを「支持」できるとしたら、敵(中国)の敵(反中国)は味方だという単純なゲーム規則内に留まっているか、かつてのそれと、現在のこれは「別」だという弁別感が働いていることになる。
1968年の日本の高校生の行動は認められないが、2019年、2020年の香港の中高生の行動は是認できる、別物だから、と判断するためにはどのようにすれば良いだろうか。
1968年の日本の高校生の行動は、一部の「党派性」によるものであり、2020年の香港における現象は「党派性」をも越えた「自由」を求めるもので、それ(自由)は、1968年でもそして現在でも、中高生含む「人間」に必要なものであり、「党派性」が競うことが出来るアリーナ自体を成立させる基盤であり、(そのような自由は)それへのどんな制限をも受けてはならない範疇だから、と主張することは一つの有力な方法だろう。
この、どんな制限も受けてはならない範疇の設立という方法を使うと、現在香港の中高生に圧力を加えている中国政府も、たとえば日中戦争時期に日本侵略から自国を守るために戦った中高生という範疇を立てれば、自国=国家というその内部で諸主体が闘争するかもしれないが、その闘争の基盤(としての国家)自体を維持するために戦った、そうした彼ら中高生を賞賛できることになる。そこでは、1969年の日本のように,未熟な中高生だから「政治=この場合救国闘争?」に参加してはダメ、という言説は当然成立しなくなる。
すなわち、2020年の香港の中高生の「政治」活動に対して与えられた「自由」という意味づけによる彼らへの支持は、同様にその基盤があればこそその内部での闘争が可能になるものとしての「国家や民族の自立」という意味づけによって置換されることも可能で、中国政府からも可能な「支持」の位相にある。
その位相は、闘争する諸主体が前提となっていて、その諸闘争が実現できるための空間、すなわち「自由」とか「国家」とかは、諸闘争をさておいてだれもが共通して守らねばならない場所であり、「自己・我々」の与件そのものなのだ、という形式を持っている。
その中の主体性とは、分離と優劣、勝利と敗北といった、党派性としての亀裂=戯れという様式において作動する。
しかし、それらの主体とは別の主体、主体化過程、むしろ多様性によってこそ生成されていくものとして、一つの「我々」を組成していくような活動、言説が可能であり、そこにおいては、諸主体の闘争場、というような疑われない基盤は、廃止されているはずである。その中では、共通の特定の範疇の者にだけ許される特殊な活動としての「政治」は廃される事になるはずだ。
要するに1968年においても、現在においても、中高生に許容される「政治」概念は、「党派性」を越えている(とされる)次元でのみに過ぎず、いいかえれば、諸対立する「諸々の主体」によって構成される「世界」内の主体様式による自由行動による抗争として考えられる限りでの「政治」は拒絶されている。
これは、保護されるべきもの(子ども)を規定することができる者が行うのが「政治」であり、そのような部分性が全体を決めることができるという構成が現在の「政治」と呼ばれている現象だ、ということだ思われる。
ということは、そうした対抗性ではなく、むしろ包摂性、社会を創り出していく共同的な動作に「政治」という語が割り当てられるとすれば、また、そのような言説を、行動を、生みだすことができれば、中高生による行動を「政治」として我々の社会の必要物として、位置付けることも可能になるだろう、という結論になる。
日本と香港での「似た」事柄に関する言説の比較、言い換えれば、時代や国家を隔てた、しかし、同じ言葉を含む別の言説同士の接触、比較、は我々の思考を展開する動力であり、たとえば、「君が代」を式典で教師が歌わなかったといって処分する日本における思考様式は、中国国歌を替え歌にしたら犯罪、とか言っている思考とすりあわされなくてはならないし、欧米による殖民地支配を参照して、自らの殖民地支配も許容されると主張する、「みんなで渡れば論法」が、ここ数日みられる、400年前からの奴隷制度批判への現実化(アメリカの南軍指揮官やコロンブスの銅像引たおしなど)によって、骨格が瓦解した今、その足場を失ったからには、自ら思考を始めることが、おのずから強制されなくてはならないのである。
追記:2020/06/15
1968年、および現在、18歳で選挙権を持つ高校生の政治活動に関する「禁止・抑止」の論理は、「教育される者」という受動性、あるいは自らが支配権を持つとした「学校内」という局限内に「身体が存在する限りは」、の限定によって生成されていると思われる。「自由」は保存されかつ、従属が合理化されるという、構成である。
一方、香港における中国政府の論理は、そのような論法=「政治的自由の仮設上で、しかし、この条件での君のそれは無効」、という形式を取らず、直接政治的な対峙の敵として、中高生であろうと労働者であろうと均一に取り扱っているように見える。たとえば、その主張は政治的自由であるが、地下鉄を破壊するような行動は処罰するとか、中高生のストライキはまだ未熟だからダメ、というような形式を取っていない。
この差分において、前者(日本で)の論理は後者(香港:中国)の論理を「自由」の名において、安心して批判できるのであるが、前者の空間で、君の行動は「政治的自由」の空間外であり「禁止」対象だとして断罪された者の思考も、当然、その圏内に留まることはできない。
たとえば、1960年、デモ隊列を蹴散らされ、塀を乗り越えた先が警視庁敷地だったために、建造物侵入で現行犯逮捕された思想家は自らの行動は政治的な次元であり、建造物侵入という水準ではない、と抗議することになるだろう。
「君が代」を卒業式で歌わずに「処分」された教師は、「職務命令違反」ではなく、その「君が代」という歌の歌詞、歌の歴史を問題化したいのに、それが裁かれないことに不満を持ち続けるだろう。
一方後者の社会(たとえば中国)でも、その中での自らの身の振り方を規制する力は、「生きる」ために君はどう行動すべきか、という示唆である。
要するに、「政治的自由」を基軸にして成立している現在の支配は、「自己」「主体」「自由」「生きること」を媒介として成立している一つの様式であり、「戦線」は一つである。
参考:2020/06/16
2015/10/29 高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(通知)
https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11373293/www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/1363082.htm
2016/2 「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について(通知)」に関するQ&A(生徒指導関係)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/1366767.htm
補注:2020/07/08
その後、香港の投票は一万人に達しなかったために不成立、授業ボイコットは行われないという報道がなされた。
国家安全法は成立させられ、活動家たちは今後更に思考を迫られることになった、我々と同様に。
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