オランダの教育
2020年1月29日
2020年7月10日
2020/01/29
東京新聞 2020/1/25 リヒテルズ直子氏(オランダ在住の教育研究家)へのインタビュー記事から
① 例えば、育鵬社などの歴史教科書で生徒に出される「課題」と比較することによって、それらの教科書執筆者や検定者、時の政府の思考様式を分析することもできるだろう。
しかし、より実践的には、旧軍隊のありかた、私刑が蔓延し、戦没者の過半数が餓死者であったような(藤原彰:『餓死した英霊達』)軍隊と作戦を作ってしまった社会にあなたが生きていたと仮定して、あなたはどうしてそれに従ったのか、あるいは別のどういう行動がかんがえられるか、という設問、問いかけのほうが、価値があるだろう。
もちろん問には必ず、答えが想定されている。
この場合、「時代の流れだったから仕方ない」というのは「答え」では無いと言うことを予め規定しておくことが重要だ。
そのような、自らの行動の可能性を封ずるような回答こそ、過去を語ることが現状の無気力の肯定に繋がる、といった、貫通した無責任(日本軍との戦争経験のあるオランダ人が不思議に思っていたこと)そのものであるからだ。
理不尽な命令について、服従するその論理、感情、それらを自覚的に取り出し、その脈路を分析することによって、別の「自ら」を打ち立てていくことが、「啓蒙」なのではないか?
この記事文脈での「啓蒙」という語には、カントの「啓蒙とは何か?」(1784)、それを論じたM・フーコーの「啓蒙とは何か」(1993石田英敬訳ルプレザンタシオンNo.5所収)を思い起こさせられる「響き」があった。
② 「自分の頭で考える」、これは、確かに、従属への対抗としてよく使われるフレーズである。しかし、このことば自体は、むしろ現在の支配の重要な基軸でもあるのだ。
例えば、2021年度からすべての国公私立大学入試で「主体性評価」が導入される、ことへの解説記事(2020/1/24 赤旗)はその事を鮮明に示している。
これは企業において、成果主義賃金とか言われて導入されてきた個人評価システムの基軸と重なっているように見える。
会社では、年度初めに、自らの目標を立て、上司との面談、目標の確定、遂行、結果を自分で評価し、また上司が評価し、それが、賃金、待遇に反映される。このような個別管理は、その過程では、「自分が何をするか」を巡った言説だけが有効である。自らの行為と思考が自らの待遇を決定するという循環性、完結性は、高校生への主体性評価においても変わらない。
今後もあらゆる場面で、「個人」「主体」を基体とする「支配」が横溢していくだろう。
そしてそれへの「闘い」は、それらに「対抗」して、と言うよりも、そのような「個人」「主体」という在り方自体の「解体」、「包摂」、全く別の集団的な主体性の在り方、を生成していく過程になるだろう。
この新聞記事で肯定的に語られる「自分の」頭で考える事、と、前述した日本の大学入試で生徒が「自ら」について説明するポートフォリオとを、比較すれば、どちらも「自己」を巡る言説だが、日本語の場合、目前の規範性との対比でこちら側に生成されたものであり、オランダ語の場合は、それらの規範性自体をある「定立されたもの」として、それを分析する体勢にまで及んでいる、と区別してみることができる。
※ なお、記事によると、大学入学共通テストの記述式採点の委託先でもあったベネッセは高校生自らがデータを書き込むeーポートフォリオ「Classi(クラッシー)」というのを開発し、「高大接続改革」研修の講師という形を取って高校に入り込み、e-ポートフォリオの営業を行っており、ある利用校では生徒が週1回ホームルームや総合的な学習の時間に記入しているのだそうです。このシステムの利用料は月額330円、保護者負担だそうです。この営業活動、学校での対応、生徒の入力、我々の活動はすべて、こうした主体の在り方の表現と言うことになる。
東京新聞 2020/1/25 リヒテルズ直子氏(オランダ在住の教育研究家)へのインタビュー記事から
私の子どもたちがオランダの普通の学校に通っていた時、中学二年生の経済の授業では「国営鉄道を民営化することによるメリットとデメリットを、国と消費者と企業それぞれの立場で考えなさい」という課題がでるんですね。
ある時、日本とオランダの歴史教育を比較して話して欲しい、という依頼がありました。そこで調べてみると、オランダの学校では「ヒトラーの時代にあなたがドイツ人として生きていたと仮定して、なぜヒトラーを支持したかを説明しなさい」という課題を出しているんです。”
戦争を経験したオランダ人男性に対して「日本の子どもたちは学校でそういうふうに歴史を学んでいない」と話したら、彼は「日本軍がなぜ、あんなにひどいことをしたのか、やっとわかった。思い込まされていて、自分の頭で考えることができなかったんだね、啓蒙(けいもう)されてなかったんだ」と言ったのです。私にとって衝撃的な言葉でした。
① 例えば、育鵬社などの歴史教科書で生徒に出される「課題」と比較することによって、それらの教科書執筆者や検定者、時の政府の思考様式を分析することもできるだろう。
しかし、より実践的には、旧軍隊のありかた、私刑が蔓延し、戦没者の過半数が餓死者であったような(藤原彰:『餓死した英霊達』)軍隊と作戦を作ってしまった社会にあなたが生きていたと仮定して、あなたはどうしてそれに従ったのか、あるいは別のどういう行動がかんがえられるか、という設問、問いかけのほうが、価値があるだろう。
もちろん問には必ず、答えが想定されている。
この場合、「時代の流れだったから仕方ない」というのは「答え」では無いと言うことを予め規定しておくことが重要だ。
そのような、自らの行動の可能性を封ずるような回答こそ、過去を語ることが現状の無気力の肯定に繋がる、といった、貫通した無責任(日本軍との戦争経験のあるオランダ人が不思議に思っていたこと)そのものであるからだ。
理不尽な命令について、服従するその論理、感情、それらを自覚的に取り出し、その脈路を分析することによって、別の「自ら」を打ち立てていくことが、「啓蒙」なのではないか?
この記事文脈での「啓蒙」という語には、カントの「啓蒙とは何か?」(1784)、それを論じたM・フーコーの「啓蒙とは何か」(1993石田英敬訳ルプレザンタシオンNo.5所収)を思い起こさせられる「響き」があった。
② 「自分の頭で考える」、これは、確かに、従属への対抗としてよく使われるフレーズである。しかし、このことば自体は、むしろ現在の支配の重要な基軸でもあるのだ。
例えば、2021年度からすべての国公私立大学入試で「主体性評価」が導入される、ことへの解説記事(2020/1/24 赤旗)はその事を鮮明に示している。
シリーズ大学入試「改革」 主体性評価って?
国の主導で21年度から導入 高校生活丸ごと判断材料に
今回導入される主体性評価とは、「主体性をもって多様な人々と協働し、学ぶ態度」の評価のこと。判断材料となるのは、小論文や面接、プレゼンテーションのほか、高校が提出する調査書や、生徒が書く活動報告書(ポートフォリオ)などです。
元高校教員で、上田女子短期大学講師の小池由美子さんは話します。「これまで調査書には、高校での学習の評定や出席状況、総合的な学習の時間で学んだ内容、資格や検定、部活やボランティア活動などが記されていました。新たに生徒会活動、留学・海外経験、資格や検定のスコアや取得時期、部活やボランティア活動の具体的なとりくみや実施期間、学校内外での活動を書くようになります。A3表1枚だったのが制限を撤廃し、膨大な量になります」
これは企業において、成果主義賃金とか言われて導入されてきた個人評価システムの基軸と重なっているように見える。
会社では、年度初めに、自らの目標を立て、上司との面談、目標の確定、遂行、結果を自分で評価し、また上司が評価し、それが、賃金、待遇に反映される。このような個別管理は、その過程では、「自分が何をするか」を巡った言説だけが有効である。自らの行為と思考が自らの待遇を決定するという循環性、完結性は、高校生への主体性評価においても変わらない。
今後もあらゆる場面で、「個人」「主体」を基体とする「支配」が横溢していくだろう。
そしてそれへの「闘い」は、それらに「対抗」して、と言うよりも、そのような「個人」「主体」という在り方自体の「解体」、「包摂」、全く別の集団的な主体性の在り方、を生成していく過程になるだろう。
この新聞記事で肯定的に語られる「自分の」頭で考える事、と、前述した日本の大学入試で生徒が「自ら」について説明するポートフォリオとを、比較すれば、どちらも「自己」を巡る言説だが、日本語の場合、目前の規範性との対比でこちら側に生成されたものであり、オランダ語の場合は、それらの規範性自体をある「定立されたもの」として、それを分析する体勢にまで及んでいる、と区別してみることができる。
※ なお、記事によると、大学入学共通テストの記述式採点の委託先でもあったベネッセは高校生自らがデータを書き込むeーポートフォリオ「Classi(クラッシー)」というのを開発し、「高大接続改革」研修の講師という形を取って高校に入り込み、e-ポートフォリオの営業を行っており、ある利用校では生徒が週1回ホームルームや総合的な学習の時間に記入しているのだそうです。このシステムの利用料は月額330円、保護者負担だそうです。この営業活動、学校での対応、生徒の入力、我々の活動はすべて、こうした主体の在り方の表現と言うことになる。
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