元号に関するネトウヨ思考
2019年9月30日
2021年5月13日
話しが深まっていない、双方言いっぱなしになっている。
伝統、法隆寺の建物をこれからも1000年守りたいという事と、法隆寺は特定の宗教の持ち物ではないか、政教分離の観点からけしからん、という言い方への是非を思考してみること。
西暦はキリスト教だから政教分離の観点からけしからん。
しかし、公文書では元号を使わせていても、すでに多くが西暦使用。元号⇒西暦という動きに対して、西暦はけしからん、という1次的な反応は、では、すでに西暦になっていることに対してはどう対応するのかについても答えを求められる。西暦⇒元号の動きにすべきだと主張できるのか、
不定期リセットされるという原理である、元号は必ず、リセットされない別の計数に換算してしか、年を数えられない。
西暦を使用しないとすれば、どのようにするか。
現在を昭和に換算するというお年寄りにあったことがあるが、そのやり方では大正、明治の出来事は換算出来なそうだ。
西暦を使用しないという事の徹底がなければ、「西暦は宗教だから」、という言い方はその時々の肯定と否定のゲームとしてのみ、発作的に肯定か否定か瞬時に弁別する空間で持ち出される「瞬間藝」アイテムにすぎないことになる。
宗教が作った伝統的な建物を文化財として政府が守るという事は党派性としての諸宗教を越えて、人類の遺産として個別宗教を見ている、ということだ。西暦とキリスト教の関係もそのようなものであって、すでに宗教としての位置で考えられてはいない。
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