裁きたがる病を凝視し、それを解体し、そこから静かに去る、ために
2016年11月21日
2021年5月13日
2016/11/21
クールべには、夜中にとび起きて「裁きだ、私は裁きたい」とわめきちらす友人がいたそうです。それは、裁きたがるという狂気です。そうした狂気がいたるところで、いついかなるときでも、裁いているのです。おそらくそれは、人間の行為にそなわった最も基本的な性格のひとつなんでしょう。人間は最後の一人になっても、つまり最後の抹殺行為が最後の敵をほろぼしてしまったあとでも、ぐらつくテ—ブルにつき、深々と腰をおろし、裁判を始めるでしよう。
私は作品、書物、章句、考えを、裁こうとはせずに存続させようとする批評を思わずにはいられません。その此評は火をともし、木が成長するのをながめ、風の音を聞き、宙に舞う泡を捉えて散開させるでしよう。それは判断をではなく、存在のしるしを多数多様化するでしょう。そうしたしるしに呼びかけ、それらを眠りからよび覚ますことでしょう。またしばしばそれらを創出するかもしれません。なんとすばらしいことでしょう! 判決を下す批評なんて眠たくなるだけです。私が好きなのは想像力にあふれたきらめく批評なのです。それは主権者でもなければ、法服をまとってもいないでしょう。それはあたう限り激しい嵐の輝きをもっているでしょう。
(M・フーコー:覆面の哲学者『哲学のポストモダン』ユニテ刊1985年 p21 市田良彦訳 ⇒ ミシェル・フーコー思考集成Ⅷ 2001年 p287)
Webでの様々な「意見」や、週刊誌、月刊誌の新聞広告、テレビを見ていると、要するに、生きているほとんどの時間に於いて、私たちは満ちあふれた「主張」にさらされ、応答を迫られているようだ。そうした空間を生きるとき、このフーコーの言葉はすがすがしい。そしてまた、静かに、思考するということ、自らを変成していくことへと、立ち向かわせる力を持っている。
ー記事をシェアするー