2004年マリーナ・アブラモヴィッチ展 [ザ・スター」
2008年11月4日
2020年7月26日
2008/11/04
作品を見ての感想は時が経つと忘れてしまうものだ。具体的な言葉の弁別によってしか意味は成立しないから、その弁別の「具体性」は、書き付けられたり、録音されたりしていないと失われてしまう。
確かに、一度そのような「意味」、「思考」を経てきたのだから、「その人」はそれを内包しているはずだとも言えるが、たぶん主体になるのは「その人」、ではなく、書かれたり言われたりした「論理空間」であって、言い換えれば、それは、言ったり書いたりした「人」から離れて別の言葉と出会い、変成させ、新たな編成を生みだしていく、「機械」、独自の行程を進んでいく「幹」のようなものなのではないか。
「かつて自分の書いたもの」を読んでいるのに、それが他者の書いたものを読んでいるかのように「ああそうだったのか」と思えたとすれば、そのような時間は、様々に限界づけられ「他者」と弁別されるものとしてどこまでも既定性としての自明性と自己同一性を押しつけてくる「自己」というような形式から剥離して、そのような「幹」に触れている、幸せな時間なのかも知れない。
以下は、2004年1月26日付の、ある画廊を経営するS氏への手紙からの引用
(2020/07/06 リンクを追加)
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1月24日に熊本市現代美術館のアブラモヴィッチを見てきました。
芦屋市立美術館の撤退問題や、各地の美術館での作品収集予算の壊滅的な削減など、国内で伝えられるお寒い現状の中で、できたばかりの市立現代美術館とはどのようなものなのだろうか、という興味もありました。
アブラモヴィッチ設計の本棚やタレルの光の天井で構成された開かれた空間(図書館)であるホームギャラリーや、子供がくつろげる一角など、買い物の途中にも立ち寄れる感じで、一日中にぎわっていました。熊本の中心的な繁華街のビルの中という位置、夜8時までの開館や、無料の映画会、コンサート、子供たちに向けての活動など、南嶌氏が言う「『人間の家』としての現代美術館」という意気込みが伝わってくるようで今後にも大きな期待ができそうに感じました。当日行なわれたアブラモヴィッチのパフォーマンス追体験というワークショップの進行や、ギャラリーツアーを担当した若い女性学芸員たちの態度もてきぱきとしたとても好ましいものでした。美術館自体のファンになってしまいそうです。
今回の展覧会はカタログを見て「行こう」と思ったのですが、これだけ集中して見ると、彼女の作品によって、あらためて「身体」や「主体性」といった概念への問い直し、あるいは自身の身体感自体を揺るがされる、ということが起きるように思いました。彼女の身体についての考察(取扱方)の現われとして印象的に受け止めたのは、「スピリット・ハウス」という、5つのパフォーマンスの内、3つのパフォーマンス映像を部屋の3面に同時に映写した展示でした。自身の裸の背中を鞭で痛みを感じなくなるまで打ち続ける、その傷ついていく背中の映像、素裸でサドルにまたがり中空に浮かび、下げていた両腕をゆっくりと上げていくにつれて次第に光が強くなりついに身体は光に溶け込んでしまう映像、一般的に「セクシー」な女性の記号であるタイトスカート、ピンヒールといった衣装で哀愁を帯びたメロディーのタンゴを一人で踊り続ける映像、この3つが同時に出現することによって、衣装を着た日常的な規範性内の身体、裸の傷つきやすい生物としての身体、光に分解されてしまう物質的な普遍性としての身体という3つが同時に提示され、ある意味での開放感を私は感じました。 何かを秘めることで誘惑する「身体」ではなく、そのような「秘密」などどこにもない、逆にすべて開放することによって初めて見えてくるまだ我々が知らない身体の可能性を提示されたような感じです。カバコフが「他者の主体を生きる」ことによって近代的な独立した「個人」概念を分解してしまうように、アブラモヴィッチは、自身の身体を何も隠されていない何物か、すなわち「今・ここに生きているもの」として痛みや光の中に分解してしまうことで、やはり近代的な主体や個人概念への批評になり得ていると、思った次第です。
美術館からの委嘱作品であり、彼女が20数年前にユーゴスラビアを離れてから初めて、その地で制作した作品「Count on Us」(2020/7追記:熊本市現代美術館の収蔵作品になった。)も、ユーゴ内戦とそれへの世界の対応の現在に続く悲惨さと、それでもそこから立ち上がる意志を感じさせる、美しい作品でした。(「The Hero」というパルチザンの司令官だった自身の父をモチーフとしたモノクロのビデオ作品とそれへの文章も考え合わせてみると、この、「記憶」と「それでも/それ故にそこから立ち上がる」という無言の意志は、よけい強く伝わってきました。)
一つ、「トーマス・リップス」という、自身のおなかをカミソリで切り星形を描いてしまうというビデオ映像については、「本来」は2台のCRTを向かい合わせて表示するものだったらしいのですが、2台の画面の間隔をほとんどくっつけてしまい、斜めからのぞくとそれらしいものが見えなくもない、という形で展示してありました。特にコメントが無かったので、係員に聞いてみたところ、「キュレーターの配慮で日本では刺激的すぎる」として、このような展示になったということでした。もちろん作家も了解してのことなのでしょうが、市教育委員会の後援を受けていますし、考慮せざるを得なかったということなのかもしれません。私としてはしっかり見たかったと思います。少し問題の性格は違いますが、昨年の「キリンアートアワード」で実質的な最高賞だった「ワラッテイイトモ」がそのままでは展示できないことを思い出したりしました。(修正版でも充分衝撃的でしたが)
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