「家族論」 構想
おそらく1994年初め、田畑稔氏(季報唯物論研究/大阪哲学学校)から、夏季合宿で家族論の発表について声をかけていただいた。氏はこのような原稿執筆の慫慂によって、私が思考を進める動力を与えてくれる存在であった。
1994年2月17日付で以下の手紙を出し、8月20日には高野山での合宿で発表をさせていただいた。その後、合宿での発表者による論集の企画があったが、論文としてまとめることはできず、1998年8月23日最終更新の未定稿と途中の断片ファイルのみを得た。
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田畑様
2月15日に、本代送金しました。
家族論についてこの間考えてきたことを、まだ、とりとめもない状態ですが、メモにしてみましたのでとりあえずお送りします。ご検討下さい。
なお、昨年8月に書いた断章(家族論ではありませんが)を同封いたしました。
1994・2・17
*まず、「家族」は我々のある関係の仕方、主体化の様式を指す概念だと理解します。すると、それは太古から未来に続く自明な自然な単位ではないというのが、論考の前提となります。したがって、「家族」を歴史的空間的な普遍性として置きその変容の諸相を検証するというモチーフではなく、むしろ私たちの「家族」という概念は現在どのようなものとして構成されておりどんな地平線を持っているか、したがってその解析がどのような方向に我々を変成させるのか、を試みてみたいと思います。
*「家族」は、「自然」という自明性の概念と「社会」という構成の概念の間に結節として存在してきたように思えます。たとえば「生殖」は、生物学的に見れば任意の男女の一対の性交によって可能であり、その次元からはけっして現在「家族」と呼ばれているような継続的な関係、また様々な親族構造というような複雑なバリエーションを導くことはあり得ないと思います。ところが実際には、(現代日本の例では)この性交の一対性が家族の基礎単位であるかのようにいわれています。一方で「生殖」は、社会の維持再生産(未来の労働力の再生産)のために現在の「家族」が負っている「機能」であり各人に課せられるものであるかのようにいわれ、国家が管理すべき対象としても考えられています。(最近の育児休業法等の整備の動機、など)。まさに現在「家族」とは、「自然」と「社会」を結ぶ結節として浮上し、それゆえ、それは「自然」から→「社会」といったような「生成」の概念(「子供・育児」という場所)の宿るところでもあるのです。しかしそうだとすれば、そこでの自然概念と、社会概念を解析することが、おのずから、私たちの現在の家族概念、それを保持するものとしての「私」という主体の様式、自己意識のあり方、を解析し、我々を別の所に運んで行くはずです。
*その作業にあたって、方法的に取るべき注意として次のことを考えます。
A)まず、最初言ったように、「家族」を何らかの実体性として対象化する位相では決して主語の位置におかないこと。ある「結節」として取り扱うこと。
B)その思考の試みが示す方向性がそのまま私の生きて行く方向性であるような現実的試みであること。
C)その思考の試みが導く概念内容はすべての人に当てはまるようになるまで「推敲」されなければならないこと。(たとえば、孤児で育ち独身で死ぬ人にも適合すること)
D)要するに、「家族とは何か、どんな内容を具備するものか」という対象志向性の問いではなく、我々がいかに生きるか、どのような「我々」を構成していくか、の実践的な活動の一部としての、「家族」をめぐる論考になること。
*以上のような前提の上で、現在考えてみたいことは以下のようなことです。(今、既に答えが解っているわけではありません)
① 臓器移植、生殖技術といったものが明らかにしている、我々の身体、自然に対する理解の変容、(生殖における性交の特権的位置の廃絶、身体の共有部品化)によって、我々の「性」概念(主体の様式)をどう変えることができるか。また、「家族」概念を自明性の地平に繋ぐ役目をしてきた「自然」と「性」概念のそのような変容は、「家族」概念を自明性(何らかの実体性)から切断し、概念として取り扱う場に引き出すが、そこにおいて「家族」はどのような特徴を曝すだろうか。
② 「なぜなら我々は『家族』だから」、と語られる様々な場面の言説において、自らを他の社会的結合形態と分かち、企業でも国家でもなく他ならぬ「家族」の位相として自己意識化するために使用される他との差異づけは、どのようなものであり、またその時「家族」という位相関係に対比される他の社会関係の結合はどのようなものとして理解されているか。その分離のベクトルについて明らかにすること。(今のところ、「家族」という位相では、財産の相続概念などに見られる私有の輪郭の弱さ、身体接触の許容、など、溶融性が強調され、他の社会結合の位相においては、個人の輪郭の際立ち、個体性、それを基体とした構築性が対比されるように感じています。)
またそれら、「家族」と他の社会的結合(企業・国家等)はどんな相互関係として相手を繰り込んで主体化(全体化)の言説を構成しているか。(たとえば、企業内での屈辱を耐えさせまた自らのその行為を正当化する、むしろそれに耐えることが自らの<力>の誇りにすらなるような、「これは家族のためなのだ」という言説の構成における脈路の解析。)
③ そのような、「家族」と他の社会的結合との区分は、「性」概念の介入によって分岐していると思える。また、その際に自然=自明とされている「主体・身体」の概念は、孤立分離し完備した個体、それぞれが完結した自己同一性、を基体としており、その孤立した身体、主体の、ある特異点(融合点)として「性・家族」は選出されている。それゆえに、人の現実的な関係は、溶融性と孤立した個体性という二つの位相への配分され、かつその間の調停という形を持ち、「家族」と他の社会的結合との区分およびそれらを結ぶ独特の接合の言説はまさにそのようなものとしてあるのだと思える。そうだとすると、性、身体、主体の概念が個体性を基体にした分離と融合の二元論から、連続性、場の固有性という理解へ変容した以降も、「家族」と他の社会的結合との差異というテーマは持続できるであろうか、すなわち、個人を基体としそれが様々に規範を組み上げていく(契約、人権その他)という社会の像と、そのような社会の中だからこそその対称点として必要な、個人がすべて互いに許し理解し合えるような関係としての「家族」という像との一対性は、依然として必要とされるだろうか? 今まで、個体性、契約等の概念が人々を分離し同時に結合もしていた社会的結合様式、すなわち「家族」外の諸関係が、全く別のあり方をしないだろうか。また、「家族」は血縁、世代等の輪郭を棄て全く別の流れにはならないだろうか。それらは、人と人の関係として、区別されないひとつの流れということにならないだろうか。
④ 最近、臓器移植、生殖技術、生命科学等で具体的に開示できるようになった物質の相での我々に対する理解は、我々は個体としての分割性ではなくむしろ連続性であり、個々はその上における場の固有性として現象している、というマテリアリズムの立場で予告された事柄にすぎないが、そこでは、「私の」身体、「私の」子供というような所有格、「自己同一性」、は、もはや「自然」に結びつけられた自明性であることができない。それは自明ではなく、自然に根拠を持つものではなく、我々がそのような「私」というものとして作動している限りにおいて自明であるにすぎず、その場合の自己-他者という絶対弁別、その輪郭での主体化、そういった主体の様式自体(いわゆる近代的な主体-その系としての、個人、契約、人権、市民社会と国家という階層構成、等々)が今や、その妥当性をめぐって問題化されるのである。
以上
付録 <もう少し具体的にはたとえばこんな感じで考えています。>
身体としての子供は、親との線形の系列化とは何の関係もない。要するに個体としての親と子は生物学的物理的には何等、ある「系列」として個有化できる有意味な成分に占有されつくしてはいない。生物としての人の個体に対する、系列化、類縁化、グループ化は、親と子に限らず、すべての個体を横断して、打ち立てられた限りでの範疇上において多重的に様々に想定されうるだけであって、ある個体と別の個体の間に、生物的個体性の全体(自己同一性)を写像するようなひとつの規則によって「系列」を構成することはできない。それは次のような経緯から規定されている。物質、または諸物質としての我々はひとつの「我々」という全体にすぎず、そこでは個体の概念さえ生成できないが、生物という結節概念を導入したときはじめて、「他」と関係を持つ、すなわち自/他という弁別で作動する単位・基体としての「個体」という概念が生成できるのだ、逆に言えばそういうものが「生物・生命」の概念だ。したがって、それぞれの間に「系列」を発見しようとして吟味される個々の生物的個体とは、我々が認識の、解釈の、生きて行くための動機から結節として打ち立てた「基体」であり、それを実体的に構成するものとしての諸物質や蛋白質等の概念とは、別の次元にある。したがって、生物学的個体間の系列化はその個体の組成分である何物かに着目してそれについて類縁/非類縁を決定できるのみであり、そのような多重の系列があらゆる方向で我々生物的な個体を貫いているにすぎない。もし、個体と個体の間に、その個体としての作動の次元での類縁性を判断できる範疇を導入しようとすれば、それは、単なる物質でも分子でもなく、生物的個体という概念を成り立たせているところの、自/他の弁別作動、自己意識、主体化の様式、にまつわる類縁/非類縁の系列であることしかできないはずである。そしてそれは、以上述べてきたように、DNA、蛋白質等いかなる生化学的な範疇とも別の次元である。それらの範疇を規範にして、それゆえ「私」はこういうものであるというような自己規定は、論理的な錯誤、自己循環にすぎない。
もし血縁という概念を「生物学的」カテゴリーとして使用するならば、それは、両親、その両親、そのまた両親、逆に子供、その子供、またその子供というような集積点を持たない発散していく系の内におかれるのが適切な取扱のようにみえる。しかしその場合「血縁」は拡散してしまうために他と区別されうる何の系列も形成できず、ただ連鎖の一般性の流れだけが存在しうる、すなわち血縁による主体の個別根拠づけは不可能となる。
くり返せば、ある個体とそれからの派生という表象における連鎖および因果の個有化は、生物学的な、すなわち物質的な次元での有意味性を持つことができず、そのような、連鎖、あるいは因果として「自ら」を考えるとは、人の選択、自由に属することにすぎないということだ。我々の身体は、血液や、免疫反応の類型、DNAでの表現など、身体構成の諸単位とされるそれぞれの諸範疇上での親縁性、グループ分けによって、すなわち、それらの範疇の数だけの局面で、またそれらの範疇がグループ化して他の範疇グループとの差異において生成する新たな諸範疇--それは別の論理階梯に属するが--の数だけの局面において、すべての身体(「自分の」精子卵子を原因とする子供を持たない身体を含む、過去のまたこれから可能なすべての身体)との多重的な、類縁性/非類縁性をもつものとなる。要するに、身体の次元において系列性は成立せず、出産という「分離産出」という表象か、ファルス(勃起した男性器)または何らかの潜在的力能が及ぼす「力の伝播」という表象によってしか、むしろ、親子という、血縁という、縁組み、系列は成立しないのである。たとえば、骨髄液移植をとってみることにしよう。特性が一致せず移植に不適合な親子兄弟と、一致し移植に適する赤の他人との関係において、彼はその範疇においては、その赤の他人との類縁性にあるのである。このようにして、生物学的な類縁性はひとつひとつ検証されることができるものであり、包括的で曖昧な類縁性(血縁関係、親子関係として表象される)は生物学的には存在していない、それは別の脈路から生成されてきたものである。言い換えれば、生物学上の(すなわち「自然」における)類縁性という審級から導かれるものとして人の関係の親縁性を論ずることはできず、あくまでもそれら(たとえば「家族」)は人が、むしろ「生物学」とか「自然」という概念を駆使して自己を根拠づけ構成してきたものとして考察されねばならず、むしろそのように使用される限りでの「生物学・自然」概念がその位相を検証される立場に置かれるのである。
また、それらの上に乗って、非血縁的な「家族」という構想を考えたとすると、まず現れるのは、性交の一対性の保存と親子関係の非血縁性(いわゆる連れ子同士の再婚、再再婚など)、さらに進捗して、性交のない集団生活としての「家族」というところまでいける。前者では、一対性自体が問われるものとなり、後者ではそれが自らを輪郭化するそのこと自体が問われるものとなる。ここでも「融合性」と「個体性」が「家族的なもの」とそうでないもの(他の社会関係)とを分かつ差異の両極なのである。
親と子供の系列化とは、ある所属として「血縁」を個有化すること、男系にせよ女系にせよ連鎖する「一族」という概念への所属であり、それは必ず基点となる始祖を必要としそれとの関係において規定される流れである。その流れは現在地から上流と下流という二つの相を見渡せるひとつの連鎖である。上流を見れば、すなわち「子供」としての「私」から遡るとしたら、そのとき一代前の項目としてどのようなものを選択するかという規則の存在、たとえば「父」を選択するという規則であれば、父、その父、そのまた父・・とたどっていくことになるが、そういった規則の選択によって初めてそのある「連鎖系列」は現前化されるにすぎず、以後その連鎖を名付け何らかの実体性として取扱い、「私」が「私より先行する」その個有の連鎖に所属するのだと考えたとしても、それは私の一代前にどんな規則、何を置いて「私」となすかという「私の選択」によって初めてその連鎖流も想定されたにも関わらず、その自らの想定に自らの根拠をみいだす、自己循環のループに入ったことを意味する。こうして同じように各人がそれぞれの個有の連鎖に所属するものであるとしてその所属の差異を取扱可能なものとすれば、また、それら弁別される諸連鎖とは別の次元に属するある唯一の連鎖にすべてが同時に所属するとすれば、この自己循環のループに他ならない「連鎖」の機制は日本でいえば「家」および「天皇制」の構成様式としてみなすことができ、約50年前まで法が規定していたすなわち、国家がその国民をどのように主体化するかの様式であった。(天皇制の場合、一代前として自己を規定するのは、もちろん父でも天皇でもない。規定されてあるということ、その被規定性自体、いわば何をも受容可能な透明性、それこそが自己を規定するそして連鎖を構成する、公比なのである。(「日本」(自己)は、「万世一系の天皇」(対象化される連鎖自体)の「国」(所属)だ、というループ。自己の円環動作、主体化。)
また、直近の「親」を選択する規則がその連鎖の内容を決定している。たとえば父を選択しかつその選択の仕方までが儀式化されていればその連鎖は細部までまた遠くまでくっきりと規制されるであろうし、もし、自分の一代前として父でも母でもなく、「両親」を選択したとすれば、その連鎖は次のような点で変わったものになる。それは一度に二つづつの項を選択するのであるから、本来発散してしまうはずだ。したがって、主体の根拠づけ効果を持つことはできない。しかし実際には連鎖の見い出しも自らの根拠づけの働きの結果であり、自らを主体として根拠づけられる形式で「両親」は自らの「因」として選択されており、それは発散しないように有限なものとしての形式を持つべく、親と子という一代の関係に自らの着目点をおこうとする。氏の実体性を効かせ、父の所に嫁に来た、母の所に婿に来たという系列性がまだ作動できているとしても、その残像のように見出される一族の連鎖は、もはや両親のどちらかが出自として保持するものにすぎず私がそこにあらたに参入するものとは考えられない。主体化の様式は、具体的にたどる「連鎖」関係から脱し、連鎖の持っていた「規定性」は規定性一般として純化され、一代限りの「親と子」という「因果」関係へと普遍化したのだ。いわゆる核家族である。
なお、連鎖の中で、下流を見るとは、親としての「私」から見るということだが、その場合も対称的に同じ結果を生ずる。何らかの規則性たとえば跡継ぎとみなすもの(たとえば長男相当者)をたどればあるひとつの系列を組み上げることができるが、単純に自らの子供(生物体としての自己の身体から流失した流れとしてみなされなくても、「自己の」と認定されればよい)をすべて追尾すると、それはやはり発散してしまう。この場合は、子孫曾孫という連鎖の中で登場する次第に多数となっていく非自己(他人)の介入によって個有性としての「自己」が希釈されていき無になってしまうというイメージへと発散されてしまう。なお、上流(過去)への思考との決定的な違いはどんな系列性を想定しようとも個有性としてそれが限界づけられる限り、断絶ということがあり得るということである。そのような限界性への認識の違いは、上流=連鎖の所属意識の違いによって、いかなる行為をこれから自らが取らねばならないか、という内容において、現れる。
墓地の継承が
養子縁組、生物的な連鎖は代替可能である。
<家族>
家族は、男と女の一対の関係(単調な自意識の水準)としては、何らかの土台とされる「自然」あるいは「自明性」と関係づけられて、理解されている。そこにおいて決定的な動因の位置を与えられている「生殖」というものが、思考の地平線として、すなわち「自然性」の範疇としておかれているために(いいかえれば、「人間=自己」の存在規定としておかれているために)、それの系である「性的欲望」というものも(「生殖」の外在的に見られた「自然性」に対して)内在的に見られた「自然性」「自明性」として扱われてきた。自然の感受。マルクス、経哲草稿、男と女の関係は自然の自然に対する関係云々。それら、自然と行為と情動とあらゆる「性」にまつわる概念を観念的にも経験的にもつなぐ特権的な位置には「性交」という臨界点がおかれている。
しかし、それらのあり方は現在いくつかの方向から揺らいでいる。ひとつには性的欲望の形態というもの自体が主体性の様式に他ならずその歴史性をもつものだという理解の方向性によって、(M・フーコー「性の歴史」)。もう一つは、依然として男女の性交による生殖が最もエコノミー(経済)の法則に沿っているとしても、生殖ということについていえば、けっして性交だけが生殖の条件ではなく(生殖を神秘として考えることが許されなくなり)、そもそも、人間の身体自体が、各人の身体として分離されたものとして理解されるべきでなく、DNAや諸蛋白質、もっといえば諸化学物質、物質の流れのいわば表現として理解するべきだという、解釈の方向性によって。(臓器移植、人工的な受精等)。これらはいずれも、いままで、自然、自明等の自己同一性を保証する規範との対峙によって自己意識を形成してきた主体の様式に変容を迫る事柄である。生殖、性的欲望等は、それまで具体的な限界としての地平線をなしていたのであるが、もはやそれらは地平線内に構成された解析されるべきある概念結節として取り扱われるものとなったのである。その解析という実践は、我々が別の「主体の様式」に変容する現実的な過程とならざるを得ない。自然概念自体が変成しなくてならない。
一方、「家族」は、人が構成する他の関係性たとえば、「企業」とか「国家」とか、との差異と相関性においても自己規定している。
それは、国家の国力、人間の再生産の単位として再生産、生殖、しかし、子供生めない人十人に一人。
愛情、企業で屈辱に耐えるための導因としての家族。
そこで、他と区別されている関係の仕方とは何か。
身体接触。なぜそれが他の関係と分溜、仕分けられているのか。
介護。男同士、女同士。医師・介護士・看護婦(士)ら「職業」による接触との違い。それは逆に見れば、職業というものの位相を示している。支配・被支配でなくどう可能か。家族内の権力は他の、人の関係-企業、国家等との自己弁別によっていないか。社会が(家族→社会・国家等の)階層性を持たないものとして理解されるとき、失敗した「力」の関係としての、流れが固着したものとしての、権力、支配・被支配、の関係が現象できなくなるのではないか。
なぜ、家族は家族として、社会というような結合のやり方とは別の結合として別の輪郭として成立しなくてはならないのだろうか?
そして一方で「生殖」は我々の個々の身体に備わった「自然」の活用でありその活用は男女の一対の性交によって実現されるという理解が、家族を自然=自明性にも結びつけており、結局、常に「家族」は二つの方向性からの了解性の中にあると感じられるのです。
たとえば「家族」は、「性的欲望」あるいはその内在的情動としての「愛情」というような全く個人的な自由な出発点を主張しますが、それはらそれは他の社会的結合の仕方
「性的欲望」は各人に配備された「自然」であり、「人間」の規定として自明性を主張してきた。
追加Note
1994・02・23
天皇の家族。男系の系列。明治天皇の子供としての大正天皇。あくまでも「明治天皇の」子であればよく、明治皇后の子供でなく、女官の子てあってもよかった。そして皇后は陵墓に葬られるのに、大正天皇の母は、佑天寺に葬られている。生物学的な家族概念=「父と母その子供達」と、家系概念との違い。また、明治天皇は、大正天皇の父として単独で考えられるのではなく、やはり、その皇后(生物学的な母ではないのだが)と一対で世代をなし、その次の世代として、大正天皇は考えられている。要するに、「明治天皇の」という言い方は、産み出すものとしての地母の継承された現在地点という表示であり、産み出されるもの、子供、正確にいえば皇嗣、跡取りとはその次元では単なる対象物であって、そこに貫通するのは世代という継承性の概念であり、それは生物学的な系列性で自らを根拠づけながら、同時に生物学的な偶然性に限界づけられ(ある男女の一対に限ってみれば子ができないこともある)、その世代継承の規則を一族、「皇統」に拡大して保持しなくてはならない。しかしそのことは、その系列がある創立者の個有性によってではなく、「系列」の持続性ということのみをその特性として存在していくということを意味する。これらが西欧の王権との違いではないか。