「雇用」という言説をめぐって に関わるメモ 1994年2月
1994年2月22日
2021年5月13日
1989年執筆、1994発刊の「雇用という言説をめぐって」に関わるメモ
1994/02/05
*雇用という分岐についての対応
「我々は雇用の問題を出されれば皆弱いのだから、だからこそ皆で連帯しなくてはならない。」などの言い方は、敵対の争点をはずれている。そのような、雇用されねば、あるいはその否定としての、雇用されなくとも生きられる、という二者択一でしかない「我々」である限り連帯はできないだろう。その考えでは、そのような自己意識では、少なくとも、なぜ、私一人の雇用が守られるということではいけないのか、なぜ、「我々」の雇用でなくてはならないのか、それをつなぐ論理が不在だからである。我々を規定するときすでに、雇用というものが個人的なもの、個人化の規範として使用されてしまっているのだ。そのような個人の集まりが我々であると。敵対の分割線は、支配と被支配ということであり、それは個人を横断し全く別の集団的な主体としての我々を生成してしまうのだ。雇用で二者択一を迫る言説はその迫ることにおいてすべての労働者に語りかけるのであり、言い換えれば彼らが雇用する者として語るということはその他者(非自己)としての被雇用者という総体に向かって語るしかないのであり、それ故その言説の受動は、率直に受けとめる限り、その雇用者(支配)に対する、対抗する「我々」として生成されざるを得ないのだ。しかし、最初に引用した言説は、すでに個人化した私から出発して単にその集団性としての「我々」を仮構しようとしている。なぜそうなるかといえば、雇用する側の言説が、ある者は雇用しある者は雇用しないという希少性の脈路、を含み、それがまさに個人化に収縮する脈路でもあるからだ。この二つのベクトルを内包して闘争は行われる。
1994/02/06
*雇用について、雇用なしでは生きられないという言説への対応として「いや生きられる」(俺は)というのは、現在その人がすでに所有している<力>(お金など)による「生きられる」であり、実は雇用なしで生きられないという言説が表そうとしていることでもあるお金<力>の所有如何を、「俺」という個別性は「雇用」とは別のやり方で得られるあるいはすでに持っているから全く平気だ、という主張なのであり、それが対抗しようとした言説と同じ規範に従った主張であるに止まる。このように「お前は生きられるか/生きられないか」という攻撃的な設問は、その回答を、現在各人がすでに所持している、別の言い方をすればその時点での慣習としてこれからも約束あるいは保証されていると考えられている各人の<力>(すなわち現在では雇用や私有財産の形態であるが)の延長上に構成されるものとして、言い換えれば、現在のその人の諸関係のあり方がどういうものであるかについて、その回答を強制しているのである。お前がどういうものであるかを知れ、というわけだ。それが現在の人の諸関係において支配的な操作をできると自認している者たちによってなされるのは当然である。現在の諸関係の平面上の関係においては、この設問に答えるよう要求される者は、まず、生きられないと回答せざるを得ないだろう。要するに設問者の勝利なのである。従ってもしこの設問に対する我々の回答、要するに設問の意図・権力への解体攻勢の言葉が、「もちろん、生きて行くさ!」であったとすれば、それは、現在すでに「私たち」が持っているもの(別の雇用=別の人たとえば妻・夫の雇用/別の新たな所との雇用、誰かからの相続財産等々)によって演繹されるものとしての「生きられるさ」ではなく、現在のそのような接合ではない別の諸関係へ自らを実現させていく宣言として発せられた言葉としての「生きて行くさ」だ。その「生きて行く」は、すでにある「私」が生きて行くのではなくこれから生きられ実現するものが「私」と呼ばれるだけだ。「雇用」という言葉を神秘的なものとして扱うことを許さない論理解剖作業、我々から<力>を抽象的に分離しそれによって諸関係が構築される「支配」の関係から別の接合を創出実現していく作業を指して「私」が構成されるにすぎない。
1994/02/20
「雇用確保」という言い方の含む様々なベクトルを分析する作業に没入していくのではなく(もちろんそれは「主体様式」の分析という脈路において必須の行程だが)、それらのベクトル群の集合と動態としての「雇用確保」というスローガンの生成現場に直接、運動として接続するものとしての言葉を考えるべき。その「雇用確保」というスローガンに込められている反支配の力を、その脈路をそういうものとして見いだし、同時に、そのスローガンを閉塞させるであろうベクトルは解体していくような言説、生き方の発明へと。言説として見られた「雇用確保」の分析(ベクトル解析、概念解析)でなく、現に今「雇用確保」と言われているということ、への接合、組み合いとしての行為が必要。・・・拙稿、『雇用とい言説をめぐって』を、国労組合員に読んでもらって痛感。
世界が内包する諸項目の緊密な完備した接合によって語られる世界像、その自己循環的動態への反抗がまずある。それはあたかも、新たなどんな項目もそこに内包してしまうほど完備し、その結合に介入の手だてが見つからない複雑な形態の起伏色彩触感等々を生成し続ける、と見える「現実」の事態に対して、それらを導くいわばオペレーター(演算子、操作子、導関子)群の次元を想定し、すなわち、語られる諸項目の関係の仕方の偏差、あるいはそこで述べられた関係の極限化によって見いだされる、ある一群の動態を抽出し、まさにそれが「主体」の範疇に他ならないが、その主体様式についての思考という次元での解析を導入し、それによって変成した主体様式(演算子群)によって、再び世界の諸項目の新たな接合組み合いの仕方の発明として、活動すること。しかし注意しなければならない、こうした時、主体とその行為という二つの分節(主語と述語)による解釈の枠組み、言い換えれば、ある輪郭を持った<力>、すなわち他との関係において何らかの自己同一性を保持している基体性、とその表現というような形での階層性において「現実」を表示しようとすることは、二元的な了解方法、自意識としての作動を招いている。そうではなく、何らかの二元性を取り扱わねばならないというのは、自意識の作動という現実、に組み合う実践的対応として招き込まれることであって、それは、そのような二元性が普遍性としてあるのだという理解とは全く異なり、あくまでその「自意識」という、自己循環性、そうした主体の様式、への現実的接合組み合いの言葉、実践として、開示としてあるのである。それは、自意識という経験への批評であり、そうであるために、そのようなものとして、自意識の経験が招くある二元性、自己循環性について、内在的に扱わなければならない必然を持っているということだ。その「内在性」とは、思考している「私」もそのような二元性、自己循環性として現象しているということの内在性ではなく、べつの「私」の編成に移動するために、その「移動」を構成するための偏差、差異の選出のために、その自己循環的な主体様式の経験との差異関係、微分をたどる実践としての「内在性」である。その実践自体が、実現された、別の主体の様式として考えられるにすぎない。それはそれ以前と以後という分割や、空間的に分割される差異ではなく、常に実現され続ける過程にある事柄にすぎない。
1994/02/21
JRでの賃金差別における個人の差異化の範疇
1、小集団活動
2、提案
3、増収、(職員の知り合いなどの購入したい切符を、その職員の勤務先に告げその勤務先から購入。印を押してくれ、購入金額についてポイント化される。)
いずれも本来のたとえば車掌の業務とは関係ないことに注目。
1994/02/22
労働者と使用者の対等性とは、労働者がすべて同一の集団性として同一行動をなすという仮想条件の下でのみ現実的な意味を持つ。スト破り、代替え要員。その具体的阻止行動に接合して展開される、裁判所による合法性の範囲の厳粛化。判例を見ると「労働者」とはいかに無力かと思わされるほどだ。ピケを張ろうとして出した手があるスピードで会社側の誰かにぶつかれば、それは違反だ、暴力だ、激亢し土足でその部屋に乱入すればやはり違反だ。また、雇用をめぐる闘争では、現在多くの問題は全員解雇ではなく部分解雇であり、その部分性を分岐に各人は「個人化」されるのである。このことは賃金制度をめぐって極限的であり、個別的賃金の差異化のための諸ノルムが微に入り細を穿ち構成されている。すなわち、もはや、かつて第二次世界戦争直後の「古典的時代」には先験性として考えられていた「労働者集団」の一体性とは、先験性ではなくむしろ我々が現在のこの個人化状況への闘争によって作り出し刻々と生きているものとして初めて実現される、主体化の水準を指す概念へと変化している。
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