国鉄現場における賃金の捉え方が持っていた可能性
1993/07/20
国鉄現場での「賃金」に関する理解からさまざまな可能性を見いだす。
(1)1986年6月
ボーナス期末手当に期間率と成績率の査定導入に対する対応
組合としては
ワッペン等の組合活動によるものは犠給対象
それ以外は対象外
分会で
期間率
私傷病の人もカットされるのは変
カンパして犠給対象者以外の人に配分。
労働力の量の変数としての、あるいは価格としての賃金という考えからの離脱を示していた。
生活に必要なものとして、病気すればおなじだけというよりもっとかかるのだからおなじに払うべき。これがそのときの皆の指向方向だった。それだけでなく成績率から見れば、より多く生産した者に、すなわち現在生産方法を企画するとされる経営者の意図により多く従った者に、より多くの賃金が支払われるべきだという「個人化」の考えかたからもはずれている。遅刻者もカットされた。もし、後に「そんな補填は不公平だ悪平等だ」等という規格化された個人、「個人化」の方向性に接触すればまた別の分岐も生まれただろうが。たとえば、「その人」の能力、「その人」の成果というような個人化の方向は、現在多くの企業の労使が自明の規範とする「個人化」によって差別化された賃金体系をもたらす。
しかし、個人化された自己でなく、共同的な「力」としての自分、自分たちを発明すること。
個人化された自己に対してそのままではこれらの方向は成立できない。
誰かとの「契約」としての「私」の労働の「計量」による変数、交換すべきものとしての労働力、「価格」という考え方は労働(活動)の分割不可能性によって矛盾を起こしている。(4)参照
労働の不可分性への気付きは、「個人化」された賃金体系、個人の所有する労働力と交換されるものとしての、「雇用」による支払いとしての「賃金」、への当然の疑いに発展する。労働の労働力への道を否定する。
(2)互いの賃金の公開制
組合費徴収、賃金表
(3)抜てき昇給、昇格への介入 平等化
3.4.3ルール。病気による欠格事項と抜てき昇給の組み合わせ。回復昇給、
(4)見習い列車係に対する指導手当のプール制
指導職が列車係には無かったための特殊性?
その人一人が指導するのではなく全員が指導しているのだ。