方法の問題
なぜ「我々」は「無敵」なのか、「無敵」にならざるを得ないのか
19世紀末、ニーチェは、「はじめに《主体》というものがあって、それが思考している」、のではなく、逆に、「はじめに《思考》があり、それが《主体》というものを形成しているのだ」、という決定的な転回を成し遂げた。
20世紀後半、その衣鉢を継ぐフーコーやドゥルーズらの思想はそのような近代的な「人間」、「主体」、そこから流れ出る「権力」概念を、包摂、自解(自壊)させることを生涯テーマにしていた。
それ以降は、「権力」というものを、「強さを現わすも現わさないも自由自在といった、超然たる基体」すなわち「〝権力者〟」が発動する、「〝力〟」、として想定している言説は、無意味となった。
「権力」として認識されていた現象は「脱構築」されなければならないものとなり、なぜその「言葉の脈路」が「人」を動かすことができるのか、あるいはなぜ「貨幣」が「人」を動かすことができるのか、その動かされる「意思」の「思考の脈路」を徹底的に分析することが「哲学」であり、現実の「政治」そのものとなったのだ。
すなわち「主体」はひとつの誤った名付けであることが宣言されたのだ。
「主体」が基体と考えられている空間とは「自立した個」という粒子が前提(基体)となり、闘争と協調を織り成す空間である。そこでは「お前の言うことは矛盾、ダブルスタンダードだ」という「破綻の指摘」は「他者」たるその「発言者」を打倒する終点であった。しかし、思考内容こそが「主体」を構成しているという転回を経てしまった後では、矛盾やダブルスタンダードの発見は単に、思考が展開を始めるためのきっかけにすぎなくなり、「思考」は集団的なものとして躍動を始める。
転回後の言説では、すべての言説の起点として、「基体化された対象物:他者:敵」を設定することが不可能になるために、それは無「敵」にならざるを得ないのである。
それまでの言葉の用法では、「敵」と「味方」は「真理」をめぐって闘争する2項目であり、双方が自らを「真理」であると主張し、相手を物理的に抹殺(戦争)する、あるいは論理的に打倒(論破)する、あるいは多数決で勝利(選挙)する、ことが、「真理」の証明だとされてきた。しかし、思想・思考内容はそれを表現する身体を抹殺しても存在し続ける、形式的な論破は主観的なものでありいくらでも生成できる、同意する人の数の多少とその思考内容の正誤とは全く別の空間に属する。更に、諸々の次元で必要な諸判断を一括して一人の人間・政党に「託す」等という言説は論理的な錯誤であるにすぎない。
しかし、「真理」とはその言説が他のすべての言説と「整合性」を持っていると判断された場合にのみそう呼ばれる事柄にすぎない、という理解にいたると、事態は全く様相を変える。
表現された言説だけがすべてであり、そのすべてに必然性を見いだし、そのそれぞれの言説がなぜそのように表出されるのかを理解することが「真理」への行程であり、それまでのすべての言説を内包した新たな言説を生成しようとする集団的な活動だけが「価値」のあるものとなる。そこでは「「裁きたがるという狂気」」を越え、「人類の歴史を総体として自己の歴史と感じることのできる」喜びに満たされることになるだろう。
その「真理であるための整合性テスト」には、次のような単純な操作で十分だ。
1,その名詞を含む或る陳述にその名詞が含まれる同一系内の別の名詞を代入して成立する別の陳述を、元の陳述を生成した思考は容認できるかどうか。(「日本」の「君が代」を歌わないことを処罰せよという思考は「北朝鮮」の国歌を歌わないことを処罰せよという主張を容認できるかどうか。その回答を自らに迫ることによってさらに思考を深めていけるのである。)
2,或る敵対性の言説が生成された場合、それを陳述する主体「私」を、敵対する相手の内部に移行させたら「私」はそこでどのような陳述を生むことになるか、その回答を自らに迫ってみる。(中国脅威論者は自らが中国人だとしたらどのような「愛国的言説」を吐くか試みてみる。)
3,その名詞を主語として相反する陳述が成立する場合、その名詞を両方の主語に留めることは論理的な矛盾だとして別の言説の生成を試みること。(「中国」の脅威を語りながら中国製の身の回り品に浸されている自らの姿を省みること。)
「主体の後に何が来るのか?」、それは生成していく集団的主体性であり、「我々」としか呼ぶことができない「固有性」である。