「二重基準」や「矛盾」は思考が展開する養分である
2022年2月のロシアによるウクライナへの侵攻、2023年10月の「被占領下]パレスチナ人からのイスラエルへの反撃をきっかけとして起こっている、すでに17年も包囲されているガザへの猛烈な空爆による虐殺、西岸地区での植民者による先住民への虐殺は、「民主主義」や「人間」を基体とした思考枠組みの限界を悲惨な形で我々に見せつけている。
ウクライナにせよ、イスラエルにせよ、パレスチナにせよ、ロシアにせよ、またそれらの映像と言説を見続けるその他の地域の人々にせよ、今我々はその悲惨について考えを迫られ続け、身を焼かれ続けているのだ。
「真理」とは、過程性の中で求められる続ける「整合性」の事に他ならず、それは多数多様性として現れるすべての可能な言説への分析から、「整合性」を成立させることができる新たな言説を生成する過程そのものにおいて、現状もっとも整合的な言説を指す、という定義になる。
これは、ニーチェが、「主体」が「考える」、のではなく、「考える」が「主体」を生みだしているのだ、と喝破したときからその系として導きだされることであり、これは科学者たちなら当然のこととして、これまでもその規則に従って思考してきた空間に過ぎない。
ある場面でその「主体」によって「民間人」「こども」への武器による殺害が非人道的だと非難され、ある別の場面では「同じ」殺害が、非人道的だと非難されなかった場合、あるいは同じ「非人道的」に対して全く別の対応を「その人」や「その国家」が行った場合、それは「2重基準」だと言われ激しく非難される。またそれは「矛盾」した行動であり、それが「その人」や「その国家」の行動が責められる理由である。
その判断空間での規則とは、「その人」や「その国家」という「主体」は一貫していなくてはならず、それが完徹されていない場合はそれをもって、責められるべきことがらであるという規則だ。「主体」は別の「主体」からその一貫性の欠如を批判され、そのことが、批判される「主体」の思考内容の「誤」の指摘であり、批判する主体の「正」を示している、とされる。また、2重基準を指摘された方は、いかに同様の事象に見えようとそれは同一ではない別の事象であるとして、その差異の数え上げによって、「2重基準」の批判は当たらない、と主張し出す。世界は唯一であり、「全く同じもの」は原理上存在できない以上、必ず、差異は言葉として見つけ出せるから、その言説において2重基準という批判への防衛、すなわち自らという「主体」の非矛盾性、一貫性を主張するのである。
この現在支配的な論理空間は「敵」と「味方」という構成であり、「基体」としての「主体」が登場者である。
その空間は「基体」で構成される論理空間であり、その中の「敵」と「味方」という項目も、川における「右岸」と「左岸」のように一対の構成であり、関係性において相互規定し、単独では存在できない。
しかし、そのような静的な空間にとって、「2重基準」、「矛盾」という批判はその空間内の「基体」たる「主体」が主張する論理矛盾を指摘するものであるから、その「主体」間闘争、敵-味方構造内での闘争、という相から、「論理」という別空間への分析に遷移させることが出来れば、2重基準という論理矛盾がどのような構成によって成立してしまっているのか、矛盾がどのようにして成立してしまっているのかを考える事によって、敵と味方の構造を自解させた別の整合的な理解を生みだす力になることが出来るのである。
それは、2重基準を指摘される「個体」に即して言えば、それが2重基準・矛盾としては理解されないで表現されてしまうのは、どのような一貫性によってであったか、を解明する過程だということになる。