「どんな生き方をしてもいいんだ」というのは「苦」を分解する「技術」でもある。
新しくビルの清掃業務に就き、職場の問題から「ビルメンユニオン」に加入した方をめぐる組合員のやり取りから。
確かにネット上にはいろいろな情報があるのですが、各人が投稿した評価文をずっと読んでいたら疲れてしまう気もします。
「会社」の違いもさることながら、「職場ガチャ」(職場によって全く忙しさも対人関係も異なる)、という言葉が投稿にもありましたが、とりあえず、自分がいるその実際の職場における様々な問題をどう解決するか、いろいろやってみること、その結果によっては別の場所に移動する道を選ぶことになるかもしれませんが、今の場所で新たな展開が起こる、ということもあるでしょう。
結局そんな風にして経験を重ね、いろいろ見えてくるものがある、と思います。
なにも、ビルメンや清掃の仕事にこだわることもないし、また、「仕事」だけで人生が出来あがっているわけでもありません。現在の社会では「お金」を得なくては「生きられない」という「事実」もあるのですが、一つの仕事の中では、「お金」とは異なる水準があって、人に喜んでもらったとか、一緒に働く人との助け合いの喜びとか、いろいろなことがあります。
もちろん同様に「お金」とは関係無く、「対人関係の辛さ」も発生してしまうのですが、相手も自分も今同じ場所に生きているのだが、それぞれの生きてきた経路の違いによって出会ったときにはいろいろその摩擦が発生してしまうのだろうな、と俯瞰してみると、心は少し落ち着けると思います。
生まれてしまった後は「どのように生きてもいい」わけなので、「仕事」もあくまでもそのなかの「一部」として位置付けてみると、考えていくときの視界が少し開けてくるように思います。
もう引退しましたが、以前ビルメンユニオン組合員で清掃現場の責任者だった方がいて、その方の部下の清掃員が、作業現場の事務職員の方から心ない言葉を投げつけられた事があって、彼は、その事務職員(仕事の流れから見ればお客さんですが)に、ゴミを集めそれを処理し、空間を整頓するという我々がいなければ君たちは事務の仕事も出来ないだろう、と啖呵を切りに行った、という話しを聞き、その通りだと思ったことがあります。
「底辺の仕事」というのは、仕事の種類という区別をまず作って、次に何らかの尺度(賃金額とか体のきつさとか)に当てはめてそれに得点を付ければ「下」の方だよね、という脈路で成立させた言い方ですが、「現実の仕事」はそういった尺度を超越した価値を持たざるを得ないものだと思っています。(「底辺」こそが「上部」を支えているのだ、というような、「尺度」を前提としたうえでの「お為ごかし」のせりふではなく)
長々書きましたが、どんな生き方をしてもいいんだ、というのは物事の前提だと思いますし、いろいろな「苦」というものを分解していく「技術」でもあると思っているのです。
ご健闘を祈ります。