二項対峙形式での言説から逃れたい。
l 日常生活から出発し、自己既定性としての「国家」を解体する。
l 中国製のパンツをはいて中国製品に囲まれ、中国からの観光客を待望しながら、中国脅威論を唱えることの論理的な不分明さを突き詰めて考える必要がある。また、日本企業が中国で生産しており、中国も日本の製品を大量に輸入している。それらの言説の場合の「中国」とは何か。
l そしてまた、2023年1月22日NHK BS1スペシャル “がん大国”に生きる〜中国・命の決断を迫られる患者たち〜がんの新規患者が世界最多の中国。公的な保険の整備が遅れ、自己負担は平均年収の5倍。高額費用に耐えかね、治療を断念する人も多い。命の決断を迫られる日々を見つめる。
そのような「中国」の「悲惨」
l 全く相反する文脈で「それ」を規定できる「名詞」は、それぞれの文脈に解体され、その「名詞」を使わずに表現されなくてはならない。
l 中国人、ベトナム人、インドネシア人のママ友
l 戦争と平和 ナショナリズム、国家
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l NHK BS早朝の「ワールドニュース」とそれを編集した8時からの「キャッチ 世界のトップニュース」の中で、11/09、ロシアで新たに動員された兵士たちの惨状について、フランスのF2が放送した映像が流された。
l ルハンシク近郊で570人の兵士が手で塹壕を掘らされていて40人しか生き残らなかったという数日前のニュースに関わるものらしい。ロシアのSNSで拡散しているというその映像には、畑の中の塹壕とも言えないような浅い溝に横たわり身を潜めたロシア兵と思われる人影に空から小さな爆弾が次々投げ落とされ、中には転がってきて身体にあたったその爆弾を2度も放り投げる姿さえ映っている。あるいは民家へ避難しようとする兵士たちが一挙に爆破される。
l ウクライナのドローンから撮影された映像だというので、当然ウクライナが持ち込んだ素材が対立するロシア国内で拡散しているということであり、あり得べき機械的反応としては、その映像の戦略的な効果とか、それが「真実」かどうかとか、ロシア軍とウクライナ軍の評価とか、色々展開されるだろうが、焦点はそこにはない。
l すくなくとも、人が爆破によって殺されるとはこういうことであり、ウクライナの放送局が連日報道する、某ビルがロシアのミサイル攻撃を受けてそこにいた何人が死にました(特に子どもの死が強調される)、というニュースも同じことが起きていることを伝えているだけだ。これまでもウクライナ戦争をめぐって放送される映像では(パレスチナの映像でも同じだが)死体ににぼかしが入る。爆弾やミサイルによる死の具体像は忌避され、「戦争」を成立させている「両勢力」についての批評が蔓延する。「敵」を殺した者に、そして傷を負った兵士には大統領が勲章を授け、戦死したものは「国家の祭壇」に祀られる。
l これまでの戦争でもそうだったし、今もその枠内での「陳述・論争」が支配している。死んだ者は結局うち捨てられている。
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l しかし、ロシアで新たな兵士として動員されることになりそうになった若者は何十万人も国外へ逃げたという。その中の一人はインタビューに答えて、「私は殺されたくないし、人を殺したくもない、だからここへ逃げてきた」と言う。2015年、日本の国会前では、
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l この平和を守る為に、愛する家族を守る為に「敵」を殺さなくてはならないのだ、という理屈はメビウスの輪のような構造だ。
l 2022/12/05(月) BS世界のドキュメンタリー 「女性たちの“戦争” 報道写真家が見たウクライナ」 ブチャ 40日間を過ごした地下室。ロシア兵が来た。君たちにも家族が母が子どもがいるだろうと諭した。指揮官ですら闘いたくないと言っていた。命令だから仕方ないと。この話をした母親は地上へ出て焼け落ちた戦車を見てこの中にいた人も燃えてしまったのだろう、家族もいたのにと言っていた。おそらくロシア語が通じるのだろう。
l 学校で習った「人類」の歴史の自らへの適用
l 「レイプ」、「戦争犯罪」それらを、プーチンやロシア、あるいは第2次大戦での「日本」などに基体化し、その現象自体を分析しないで済ませようとしないこと。それは、アイヒマンや誰某やあるいは現在のある官僚や、私たち自身の諸行動への分析を行うということ。ニーチェが、主体が考えるのではなく、考えるが主体を作っているに過ぎないと言ったことの意味。「〈考える〉というのが制約するものであって〈我〉とは制約されたものでないのか、したがって〈我〉とは、思考する働きそのものによって作られる一個の綜合物にすぎないのではないのか」『善悪の彼岸』
l 無敵の思想、無「敵」の思考を行っていくこと。
フーコー「覆面の哲学者」『クールべには、夜中にとび起きて「裁きだ、私は裁きたい」とわめきちらす友人がいたそうです。それは、裁きたがるという狂気です。そうした狂気がいたるところで、いついかなるときでも、裁いているのです。おそらくそれは、人間の行為にそなわった最も基本的な性格のひとつなんでしょう。人間は最後の一人になっても、つまり最後の抹殺行為が最後の敵をほろぼしてしまったあとでも、ぐらつくテ—ブルにつき、深々と腰をおろし、裁判を始めるでしよう。
私は作品、書物、章句、考えを、裁こうとはせずに存続させようとする批評を思わずにはいられません。その此評は火をともし、木が成長するのをながめ、風の音を聞き、宙に舞う泡を捉えて散開させるでしよう。それは判断をではなく、存在のしるしを多数多様化するでしょう。そうしたしるしに呼びかけ、それらを眠りからよび覚ますことでしょう。またしばしばそれらを創出するかもしれません。なんとすばらしいことでしょう! 判決を下す批評なんて眠たくなるだけです。私が好きなのは想像力にあふれたきらめく批評なのです。それは主権者でもなければ、法服をまとってもいないでしょう。それはあたう限り激しい嵐の輝きをもっているでしょう。』