生成された「主体」を基体・基底として論理を進めてはならず、「主体」生成の「合理性」自体への分析こそが必要なことである。
『帝国の慰安婦』朴裕河 p38
日本の「からゆきさん」についての記述から敷衍して以下のように語られる。
「娘子軍」とは・・・家族や国家による犠牲者だったはずの彼女たちが国家勢力の拡大に役つと知り<国家のための>役割を担う存在として認識されていく過程で作られた言葉でもある。後世の慰安婦もまた「娘子軍」と呼ばれ(『毎日グラフ別冊日本の戦歴』〈一九六五〉21頁の写真キャプション)、慰安婦たちはそのように国家による被害者でありながら、国家の呼び声に応えて、「すすんで」、〈愛国者〉となっていった。
それが国家の不条理な策略だったのはいうまでもない。遠い外国で辛い生活を送っていた彼女たちにとって、その役割が〈誇り〉となり、生きる力になりえていたという点である。そのことで彼女たちは、家父長制と国家の被害者でありながら〈貧しい被害者〉の立場を乗り越えて、自立した主体性をもつ存在になろうとしたのである。
※「慰安婦」の主体の形成について語っている。
しかし、その「当事者」の「主体」はそのような脈路である、という「理解」に至ったとしても、その「主体」が、対象物化されてはならない。現在支配的なのは、そのような水準での「諸主体」が演ずる空間が「社会」であるという理解ではあるが。
「主体」生成の脈路はそれ自体において分析されるべきで、その生成された「主体」を基体・基底として、そのような「思い」を「持つ」「人間」あるいは「かけがえのない」と言う修飾をした「個人」という対象物の想定の下に、その対称点となって成立した「私」あるいは「私たち」がとるべき、その「対象化された」「彼、彼女」への「最適化された行為」を探すべきだ、という行程に入るべきではない。
「主体」生成はある「合理性」によって閉じられているが、その完結性によって「その人」の「存在」を定立し、神秘化し、あれこれ評価したりするのではなく、その「合理性」への分析が必要である。