論理における2択の高揚感は、賭博の2択の高揚感と同じ。
2019年2月14日
2021年5月13日
2019/02/14
2択の高揚感は、賭博の2択の高揚感と同じ。
2択⇒問題の多重性の排除、単純化による自己(自己←→他者)という構成の成立による収縮高揚。
宝くじは「当たるか当たらないかだから確立は二分の一だ」と言う言説、あるいは、草野球選手の私に大リーグからスカウトにくる「確率は0ではない」、と言うあるテレビコマーシャルの言説。「ある」とその否定として定立される「ない」との対比(差異)は意味が成立する原理として当然導かれるので、その「当然」を元に作動させれば、前述の言説も成り立つことになる。
しかし、発行される宝くじ枚数と当選枚数の比率とか、大リーグ選手の具備すべき能力水準という、数で比較される項目を、「ある」と「ない」の2項のみの空間に作用させると、直ちに「確率」は二分の一であることを止めざるを得ない。
言い換えれば、説得材料として使われる「確率」とは、想定される事柄としてどの様な分岐でどれだけの数を母数として設定するかで、結論がみちびかれるものだ、といいうるのではないか。
ー記事をシェアするー