「記憶」の個人主体モデルにおける使用方法
2017年6月16日
2020年7月10日
2017/03/16
「記憶」の内容は、それによる陳述が事実に反していたとしても、その主体がそう思っていたのであり、「個人」という主体はその記憶に基づいて語るしかないのだから、「意志的な虚偽」とは異なり、虚偽=悪ではない、という論理。
「個人」をめぐる論理技法
疑惑の人物と自らは距離があることを示したい場合の例。
① 『自分の記憶に基づいて答弁した。虚偽の答弁はしていない』
② 『私は本当に、自分の記憶に基づいて答弁をしている。従って、私の記憶に基づいた答弁であって、虚偽の答弁をしたという認識はない。』
③ 『「ない」と言い切ったのは、それほど記憶にないということなんです。13年前で、記憶力が悪いだろうと言われたらね、そうなんですが、私の中では全くない、というのが自分の認識だったのであのようにきっぱりと申し上げたわけだ。』
④ 『私は天地天命に誓って、今までも自分の記憶に基づいて答弁してきた。虚偽の答弁をしたことはない。』
⑤ 『故意の虚偽答弁ではないから引責辞任の必要はないと主張した』
⑥ 「記憶に自信があった」と過信を認めた。
「記憶」の内容は、それによる陳述が事実に反していたとしても、その主体がそう思っていたのであり、「個人」という主体はその記憶に基づいて語るしかないのだから、「意志的な虚偽」とは異なり、虚偽=悪ではない、という論理。
「意志」がその「個人」への「良い/悪い」の判断基軸であるために、嘘をついていたという意識(悪をなしている)という意志がなければ、悪ではないという論理。
客観的な事実構成を意味する場合の「真理」とは別の、完結した価値としての「個人」の「思い」がもう一つの「真理」であり、それは全く並立的に成立するものだとされる。そのような「個人」と「世界」の関係が前提とされる空間でのみこのような並立的な構成は主張される。この相対化、並立制による「良い」と「悪い」の混濁化により、「批判」を無効化しようとする論理動態の断面がここで引用した陳述である。
もちろん、「記憶」を検証するという作業を怠った、その当該「個人」への批判はそれでも成立する。 その「記憶」を主張する「主体」はなぜ、外部に様々な記録(他者の言説)として存在する事柄群と自らの「記憶」との、その次元での整合性を検証しなかったのか、その検証が不完全であったとすればその不完全さ、未熟さは、その当該「個人」の未熟さ、劣った点として評価され、結局その地位(この場合、その評価を受ける人がそれに参与できると原理的に定義されている、「政府」の役職)にその当該「個人」はふさわしくないと言う言説をもたらすことが可能だろう。
このように「個人」「記憶」の完結性は常に外部からの検証の具体的な論理レベルによって浸食され、無効化されるのであるが、まだ、現在、「個人」は最期の砦として、また基体として機能している。
このように「個人」「記憶」の完結性は常に外部からの検証の具体的な論理レベルによって浸食され、無効化されるのであるが、まだ、現在、「個人」は最期の砦として、また基体として機能している。
しかしそうした「記憶」「個人主体」の様式を主張の次元においても、引用⑥「記憶に自信があった」という言い方に展開の可能性を見いだすべきである。
「記憶」が、「記憶に」○○が「あった」、と対象的に位置付けられることで、「記憶」は「自己」そのものではなく、「記憶」を持つ者、「記憶」を持つ、「記憶内容」とは別次元の主体が想定されていることが判明する。その記憶を持つ、記憶を構成する「主体:自己」(の脈路)をこそ問題化することによって、「記憶」が基体として対他的な防御基盤として機能したり、その記憶と同値される「主体」が輪郭として「責任」を持つ、という現在の個人主体モデルが対象化される契機になり得るのである。
「記憶」が、「記憶に」○○が「あった」、と対象的に位置付けられることで、「記憶」は「自己」そのものではなく、「記憶」を持つ者、「記憶」を持つ、「記憶内容」とは別次元の主体が想定されていることが判明する。その記憶を持つ、記憶を構成する「主体:自己」(の脈路)をこそ問題化することによって、「記憶」が基体として対他的な防御基盤として機能したり、その記憶と同値される「主体」が輪郭として「責任」を持つ、という現在の個人主体モデルが対象化される契機になり得るのである。
真実を検証するという立場からは、国会での質問は、「記憶内容」を語らせるのではなく、その「記憶」が構成される脈路に焦点を当て、その記憶を語る主体が、どのようにしてその記憶を検証したか、しなかったか、を質問すべきなのである。しかし、質問する側もその相手の個人主体モデルへの打撃を与える(嘘を言う者であるか否か)ことを目的としてしまう同じ論理平面にいるので、それらへの展開が閉ざされ、結局事実によって記憶内容の誤りが暴露されても、私はそう思っていなかったという言い方でその平面では常に整合的に完結することが可能であり、追求される個人が陥落するのはその平面においてではなく、別の論理平面、あくまでもその個人主体モデルに従ったその個人への「支持/不支持」などの基軸での判断によってなのである。
何が真実であったのか、共同的に明らかにする行程として言葉のやり取りはその位相を遷移させなくてはならないだろう。「個人」に興味はない。
出典
2017/3/14
http://digital.asahi.com/articles/ASK3G34B3K3GUTFK002.html?iref=com_alist_8_01
稲田防衛相、一転「夫の代わりに出廷したと…」森友訴訟
国有地売却問題に揺れる学校法人「森友学園」(大阪市)をめぐり、稲田朋美防衛相は14日午後の衆院本会議で同法人の訴訟への関与を否定してきた一連の国会答弁について謝罪し、訂正すると述べた。稲田氏は同日午前の閣議後の記者会見でこれまでの発言は「私の記憶にもとづいた答弁」と説明したが、野党は虚偽答弁の疑いもあるとして辞任を要求する構えだ。
http://digital.asahi.com/articles/photo/AS20170314001155.html
稲田防衛相「出廷の記憶、全く無かった」森友訴訟で釈明
2017年3月14日10時48分
2017/3/16東京新聞
記憶過信 稲田氏に苦言
公明幹事長「慎重に答弁を」
稲田朋美防衛相は十五日の参院予算委員会で、「森友学園」の訴訟への関与を否定した自身の答弁を撤回し、謝罪した問題について「記憶の間違いだった。虚偽の答弁をしたとの認識はない」と重ねて強調した。
一連の発言をたどると、記憶に対する過信、事実関係の確認不足という二つの問題が浮かぶ。慎重さを欠く言動に、与党からも批判が出た。
何が真実であったのか、共同的に明らかにする行程として言葉のやり取りはその位相を遷移させなくてはならないだろう。「個人」に興味はない。
出典
2017/3/14
http://digital.asahi.com/articles/ASK3G34B3K3GUTFK002.html?iref=com_alist_8_01
稲田防衛相、一転「夫の代わりに出廷したと…」森友訴訟
国有地売却問題に揺れる学校法人「森友学園」(大阪市)をめぐり、稲田朋美防衛相は14日午後の衆院本会議で同法人の訴訟への関与を否定してきた一連の国会答弁について謝罪し、訂正すると述べた。稲田氏は同日午前の閣議後の記者会見でこれまでの発言は「私の記憶にもとづいた答弁」と説明したが、野党は虚偽答弁の疑いもあるとして辞任を要求する構えだ。
http://digital.asahi.com/articles/photo/AS20170314001155.html
稲田防衛相「出廷の記憶、全く無かった」森友訴訟で釈明
2017年3月14日10時48分
2017/3/16東京新聞
記憶過信 稲田氏に苦言
公明幹事長「慎重に答弁を」
稲田朋美防衛相は十五日の参院予算委員会で、「森友学園」の訴訟への関与を否定した自身の答弁を撤回し、謝罪した問題について「記憶の間違いだった。虚偽の答弁をしたとの認識はない」と重ねて強調した。
一連の発言をたどると、記憶に対する過信、事実関係の確認不足という二つの問題が浮かぶ。慎重さを欠く言動に、与党からも批判が出た。
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