「構内デモ」新海覚雄と国労
2017年1月15日
2023年6月28日
2017/01/15
「国鉄詩人」2017年春号2017年1月1日より (加筆)
前号で矢野俊彦氏が紹介してくれた、「燃える東京・多摩 画家・新海覚雄の軌跡」を見てきた。前号表紙に使用された展覧会ポスターの絵、「構内デモ」を見た瞬間、懐かしさと共に、絶対見に行かねばと思ったのだ。
(下の画像は展覧会パンフレットから)
新海覚雄と国労
1977年頃国鉄詩人連盟に加わった当時、東鉄詩話会の集まりは、国労本部職員だった太田君子さんやゆきゆきえさんのつてで八重洲の旧国労本部をよく使わせてもらっていた。初めて本部へ行ったときに、何か大きな労働者の絵が飾ってあって、これが国労か、と思った記憶がある。だからこの絵はロビーに飾ってあったのだとずっと思いこんでいたのだが、展覧会のことを掲載した「国鉄新聞」3170号(2016年7月18日発行、国鉄労働組合ホームページから)は、この絵のことを、「昭和28~29年の順法闘争、処分反対の3割休暇闘争でスクラムを組むピケ隊(田端機関区)の姿を描いた作品、この間、八重洲の国労本部の応接室、そして現在は新橋交通ビル4階会議室に掲げられている」、と紹介していた。ゆきさんや、1980年代後半に本部委員長だった国鉄詩人連盟会員の稲田芳朗さんに確認したところ、やはりこの絵は五階の応接室に展示されていたということのようだった。しかし私が応接室に足を踏み入れたことはなく、矢野さんも「ポスターの絵を見てすぐに解った。八重洲の国鉄労働組合本部に飾られていた絵だったからだ」と前号で書いているのでおそらく(一般組合員だった)私や矢野さんの記憶に間違いがなければ、ある時点で、誰もが見られる場所から応接室に移されたのではないかと推測した。そこで、2012年に国労本部が作成した、「国鉄新聞」と「国労文化」(旧「国鉄文化」)のバックナンバーを収録したDVDで関係記事を検索してみたが、結局そのような経過があったのかどうかは分からなかった。
以下に紹介するようにたびたびこの絵の画像は国労組合員の目に触れているので、本物を見たことがある、という錯覚が生じていた可能性もある。
いずれにせよ、調査の過程で国労と新海覚雄氏の関係について初めて知ったこともあったのでまずそれを紹介する。
「国鉄文化」1955年5月号に美術評論家の木村重夫氏が「『構内デモ』の作者と作品――新海覚雄の横顔――」という文を掲載している。その中に次の一節がある。
いずれにせよ、調査の過程で国労と新海覚雄氏の関係について初めて知ったこともあったのでまずそれを紹介する。
「国鉄文化」1955年5月号に美術評論家の木村重夫氏が「『構内デモ』の作者と作品――新海覚雄の横顔――」という文を掲載している。その中に次の一節がある。
「こんど新海覚雄の大作「構内デモ」が完成して、昨年新築の国鉄労働会館壁面に飾られた。いずれこの会館に集ってくる全国鉄労働者諸君の目にふれ、いろいろと批判や話題の対象になることだろう。」
この絵が国労委嘱作品として「会館に集ってくる全国鉄労働者」の目にふれることを目的としていたのは間違いないようだ。
なお、「国鉄新聞」1955年1月1日号は一面上段を使ってこの絵を「構内デモ(仮題)」日本美術会員 新海覚雄画として紹介している。(ちなみにその下の中央闘争委員長柴谷要氏の新年挨拶の表題は「今年こそ社会主義政権を」でした。)
また、「国鉄文化」1964年3月号の表紙にも「構内デモ」の一部が使われていた。
前述の国鉄文化の記事で木村重夫氏は次のように述べている。
かれは、たいへん偶然のことから国鉄労組の人たちと知り合い、その支持を得てこんどの製作の機会が与えられたこと、また自分の作品が新しい国鉄労働会館の壁面に飾られることをひどく誇らしげに喜ぴながら、いろいろ現地写生の苦しみ責任の重さについて私に話してきかせるのであつた。
「一口に国鉄労働者といっても、機関庫の人、駅の人、乗務の人それぞれの職場によって、まるで人間の性格やタイプが違っているんだ。それが一人一人スケッチしていると実によくわかる」
「労組の人たちは、みんな気持よくよろこんでモデルに立ってくれるし、いろいろ写生している自分に気を使ってくれるので、だんだん責任の重さをつよく感じる。しかし僕は労働者の顔を描いているとき、全く画壇的な野心などすっかり忘れて、自分が画描きであることにしみじみと生きがいを覚えるんだよ……」
……中略……それから数日の後、かれはビキニの灰雨の降る中を、一ヶ月余りも田端の機関区へ通って得たスケッチの一部だといって、十数枚のデッサンを私に見せてくれた。
その現地写生にあたり新開氏を案内したのは当時上野支部教宣部長の野沢源之介氏で、国労三〇周年記念メダルの図案に「構内デモ」が使用されたことから、当時の回想を「国労文化」1976年9月号に書いている(抜粋が国鉄新聞3170号に掲載)。田端機関区裏、尾久客車区に出る留置線で線路の説明をし、「つぎに人物の貌々は、田端機関区、尾久客車区、および田端電務区の女子組合員と、国鉄労働者の典形として、先生の目にとまった数多くの組合員諸君のものだ。」という。
その中の一枚「庫内手」という作品は「国鉄文化」1955年8月号の表紙にカラーで掲載されている。
新海覚雄の名前が「国鉄文化」、「国鉄新聞」に初めて出てきたのは「国鉄文化」1954年4・5月号と思われ、内灘スケッチと題された作品が表紙に採用されている。
新海氏は次のように書いている。
「私も内灘をテーマにする幾つかのカット挿絵を描いてきたが、遠くはなれた土地のことでは、絵空事に落ちるのは当然でこの闘いの空気に直接ぶつからなければと思い、機を得て内灘一帯を、約一週間、土地の人々とすわりこみをともにして、根強い闘いの有様を深く心に銘じて来た。
ちようど私が行つた時は七月下旬で、あの長雨のつずいている頃で、闘も一番烈しい時であつた。村人は毎日毎日、試射の始まる前から終わる後までズブ濡れで闘つて居り、その中で坐り込み、強行出漁が、デモがつずけられている。
この現実にふれ、私は得がたい貴重なものを与えられた。
絵空事ではない烈しいリアルの姿を汲み取つて私は一人の画家として、それにふさわしい絵を描こうと思う。」
「顔」として現れる力
展示作品で最も印象的だったのは砂川闘争の人物像だった。
1955年米軍立川基地の拡張に反対して立ち上がった住民運動の行動隊長青木市五郎氏はじめ11人の表情が水彩・コンテで描かれているのだが、その毅然とした意志の力、存在感は圧倒的だった。
当然のことながら、60年以上を隔てた沖縄辺野古や髙江での今現在の闘いとのつながりを思い起こさせると同時に、無名の人々の顔の「価値」のようなものを感じざるを得ず、それが、普遍的な力として現されていると思えた。過去と現在、未来を貫く軸のように「顔」が、私の前に生き、共に何かをなそうとしているのである。かつて国労は「足跡」という記録映画を毎年作成していた。マル生反対闘争後に国鉄に入った私が見せられた映画の中に、いつも見る電車区の検査係の、一人の「顔」を見いだしたときの新鮮さは、歴史は我々が作っているものだ、という覚醒感に他ならなかった。
「我々の歴史には闘いなんかどこにもなかったんだ」、「昔も将来も今の体制がずっと続くものなのだ」、そのように私たちに反復して言い聞かせようとするテレビやマスメディアの表現から、そうではなく、脈々と続く、闘ってきた、常に新たな物を創り出そうとしてしてきたのが「我々」だ、という理解へと遷移しなくてはならない。
折から、現在私が所属するコミュニティ・ユニオンである「下町ユニオン」会報でも地元東京東部下町における労働運動の戦前からの歴史が連載されており、 現地を訪れる企画も行われた。
過去にそういうことがあったという学校のテスト用の「知識」ではなく、今現在の、雇い止めや、解雇や、パワハラ、貧困、それらへの闘いが、先人達も闘ってきた同じ地平線にあることを自覚することは、身体の自由な動きへの抑制を解き放ち、開放感をもたらしてくれるものだと確信する。その時、新海覚雄が描いた国鉄や砂川の人々の顔貌は「現在」そのものとして迫ってくる。
町中で遊ぶポケモンGOというゲームが流行っているが、今我々に必要なアプリは、例えば、あるショッピングセンターの前でスマホを向けると、過去にそこに存在した工場で若い女性工員たちが行ったストライキの映像が現れ、その人々の顔が現れ、その人々も含んだ主体性が「我々」であることを示し、またある橋のたもとでは、虐殺された朝鮮人や中国人が現れ、二度とそのようなことを起こさないために何が必要かを問いかけてくる、そのようなものだ。
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