竹村和子<チームK>
2016年2月14日
2021年5月13日
2016/02/14
新聞を読んでいたらこんな記事が目についた
一度だけ彼女の生の姿と声に接したことがある。
調べてみると、2004.12.11 お茶の水女子大学で開かれた第1回F-GENSシンポジウム「グローバル化、暴力、ジェンダー]、分科会A 「いかにして権力はパフォームするのか――暴力の再現前とジェンダー配備」の中でだと思われる。妻の死後10数年を経て、今後も一人で生きていく目処のようなものがついたと思い、50歳で仕事をやめたこの時期、このようなある意味で「場違い」なところへでも、思考上の「出会い」あるいは「自身の変化」を求めて、出かけていた。彼女は大きな17インチのMacのノートを持参して登壇したように思う。ああやはりMacなんだなと思ったので記憶に残っている。話しの中で自分はレズビアンであり、見かけと違いブッチだと語っていたと思う。(ブッチという語ではなかったような気もするが、録音源がないのではっきり言えない。いずれにせよ、レズビアンにおける「能動的」「暴力的」という意味合いの立場を示すカタカナ語であったとおもう。)細身の身体との対比からか、また「自身」についてあっさりとそのように語ったことへの驚き、あるいはやはりそのような真剣な経験があったればこそ、その自身を相対化しなければならない必然性の上に彼女の仕事もあったのか、と、ある意味納得させられた、強い印象が残っている。
おそらく知っている人は知っていただろう、彼女の最期の頃のこの友人たちとの関係について今更ながら初めて知って、論理的にあり得べきことが実際に起きていたのだという充実感に満たされた。
「チームK」のことから私が直ちに連想したのは、ゲイであったミシェル・フーコーの一連の言葉だ。1987年に日本語になって出版された『同性愛と生存の美学』(増田一夫訳)という本を読んだのは同年4月の国鉄分割民営化の直後だったが、分割民営化反対闘争の経験は非常な共感をこの本にもたらした。
いくつもの言葉が我が身にも刻まれた。特に「生の様式としての友情について」というゲイの雑誌とのインタビューはほとんど全行にアンダーラインを引きながら読んだ。
この「チームK」の記録は死後発行された彼女の本に付録として収められているというので、これは読まねばならぬと思い購入した。
http://wan.or.jp/article/show/1211
当時の彼女の唯一の親族は、遠隔地在住で介護サービスを受けている叔母だけであったことが、「チームK」の背景と知ったが、最も印象的だったのは、彼女が亡くなる2ヶ月前、ほんの少しの小康状態を得たところで「チームK」の皆にできる限りの御礼をしたいと、パーティーを開いたというところだ。
「会が始まって間もなく、様態が心配された和子さんはH・Nさんの押す車椅子で姿を見せ、力強い声で<チームK>への感謝と再度お目にかかることは望めないだろう、でも今宵は楽しい一時を過ごして欲しいと話され三十分くらいで退出しました。」
もう会えることはないだろうという挨拶、そしてそれを皆知っている参加者、生と死を繰り込んだ時間。死後公開を前提としたドゥルーズのインタビュー動画「アベセデール」にも彼の当時の住所をインタビュアーが語り、これは死後公開されるので言えるのですが、という台詞があったが、自らの死後への呼びかけは現在の生と別の物を想定するのではなく、現在に直立するような形で行われる時、我々が今ここにあることの強さ、喜び、美しさ、として世界に横溢していくように感じる。
ここでも思い浮かべるのは、フーコーの言葉だ。
彼女は「一般財団法人竹村和子フェミニズム基金」を残し、研究費に苦労するフェミニズム研究者向けの支援を行っている。
直接交流があったわけでもなく、彼女の著作や翻訳を書棚には並べていても決して良い読者でもなかった(フーコーやドゥルーズらに比べてどこか読みづらいと感じて後回しにしていた)にもかかわらず、その僅かな生の断片が引き起こす「重力波」が安らぎや、勇気を、遠いこの「私」にもたらした。
たった一度その生の姿を見たその日、その会場に向かう大学の構内での燃え上がるような銀杏の黄金の樹形にその記憶は重なる。
・・・2011年、年少の友人、英文学者の竹村和子さんが悪性腫瘍で亡くなりました。享年57歳。ひとり暮らしの彼女の闘病を支えるために友人30人からなる「チームK(和子の頭文字)」が結成されました。入れ替わり立ち替わり住まいに通い、食事を作って一緒に食べ、病室に付き添い、最期を見送りました。血縁のない女性たちの「選択縁」によるつながりです。竹村さんが「人持ち」だったからできたことです。豊かな終末期のためには「金持ちより人持ち」・・・。2016年1月29日「赤旗」上野千鶴子さんに聞く『おひとりさまの最後』よりフェミニスト、ジュディス・バトラーの翻訳者として注目していた竹村和子さんの死を新聞の死亡記事で知ったときの、まだ若いのに、本当に死んでしまったのか、という不意打ちの驚きと残念さを思い出す。実は私と彼女は同い年だ。和子という名前はその年代にはまだ多く、私の妹も同名だった。
一度だけ彼女の生の姿と声に接したことがある。
調べてみると、2004.12.11 お茶の水女子大学で開かれた第1回F-GENSシンポジウム「グローバル化、暴力、ジェンダー]、分科会A 「いかにして権力はパフォームするのか――暴力の再現前とジェンダー配備」の中でだと思われる。妻の死後10数年を経て、今後も一人で生きていく目処のようなものがついたと思い、50歳で仕事をやめたこの時期、このようなある意味で「場違い」なところへでも、思考上の「出会い」あるいは「自身の変化」を求めて、出かけていた。彼女は大きな17インチのMacのノートを持参して登壇したように思う。ああやはりMacなんだなと思ったので記憶に残っている。話しの中で自分はレズビアンであり、見かけと違いブッチだと語っていたと思う。(ブッチという語ではなかったような気もするが、録音源がないのではっきり言えない。いずれにせよ、レズビアンにおける「能動的」「暴力的」という意味合いの立場を示すカタカナ語であったとおもう。)細身の身体との対比からか、また「自身」についてあっさりとそのように語ったことへの驚き、あるいはやはりそのような真剣な経験があったればこそ、その自身を相対化しなければならない必然性の上に彼女の仕事もあったのか、と、ある意味納得させられた、強い印象が残っている。
おそらく知っている人は知っていただろう、彼女の最期の頃のこの友人たちとの関係について今更ながら初めて知って、論理的にあり得べきことが実際に起きていたのだという充実感に満たされた。
「チームK」のことから私が直ちに連想したのは、ゲイであったミシェル・フーコーの一連の言葉だ。1987年に日本語になって出版された『同性愛と生存の美学』(増田一夫訳)という本を読んだのは同年4月の国鉄分割民営化の直後だったが、分割民営化反対闘争の経験は非常な共感をこの本にもたらした。
いくつもの言葉が我が身にも刻まれた。特に「生の様式としての友情について」というゲイの雑誌とのインタビューはほとんど全行にアンダーラインを引きながら読んだ。
「警戒しなければならないことは、同性愛という問いを「私は何者なのか?私の欲望の秘密は何なのか?」という問題に引き戻す傾向です。……「どのような関係が、同性愛を通じて成立され、発明され、増殖され、調整されうるのか?」と問いかけた方がよいのではないでしょうか。自分の性の真理を即自的に発見するのが問題なのではなく、むしろこれから自分の性現象を、関係の多数性に達するために用いることなのです。…… 。おそらくこれこそが、同性愛は欲望の一形態ではなく、ある望むべき事柄であるという真の理由なのでしょう。…我々は懸命に同性愛者になろうとすべきであって、自分は同性愛の人間であると執拗に見極めようとすることではないのです。同性愛という問題の数々の展開が向かうのは、友情という問題なのです。」
「友情… …言いかえるならば相手を喜ばせることができる一切の事柄の総計なのです。」
「諸々の結合関係が形成され、予期されぬ諸々の力線が結ばれることによって脅かされることなしには、いささか鋤き均らされた社会が場を与えることができない--愛情、優しさ、友情、忠実さ、僚友関係、仲間関係などが抱かせることのある不安…。私はこうしたことが同性愛を「当惑させるもの」にしているのだと思います。性行為そのものよりも、同性愛的な生の様式の方が遙かに。法や自然に適合しない性行為を想像することが、人々を不安にするのではありません。そうではなくて、個々の人間が愛し合い始めること、それこそが問題なのです。制度は虚を突かれてしまいます。」
「制度内にショートを引き起こし、法や規則や慣習のあるべき所に愛を持ち込むこうした諸関係を…制度的諸コードは合法化することができない。」
「同性愛は、関係、そして感情の潜在的可能性を再び開く歴史的な機会です。」
この「チームK」の記録は死後発行された彼女の本に付録として収められているというので、これは読まねばならぬと思い購入した。
http://wan.or.jp/article/show/1211
当時の彼女の唯一の親族は、遠隔地在住で介護サービスを受けている叔母だけであったことが、「チームK」の背景と知ったが、最も印象的だったのは、彼女が亡くなる2ヶ月前、ほんの少しの小康状態を得たところで「チームK」の皆にできる限りの御礼をしたいと、パーティーを開いたというところだ。
「会が始まって間もなく、様態が心配された和子さんはH・Nさんの押す車椅子で姿を見せ、力強い声で<チームK>への感謝と再度お目にかかることは望めないだろう、でも今宵は楽しい一時を過ごして欲しいと話され三十分くらいで退出しました。」
もう会えることはないだろうという挨拶、そしてそれを皆知っている参加者、生と死を繰り込んだ時間。死後公開を前提としたドゥルーズのインタビュー動画「アベセデール」にも彼の当時の住所をインタビュアーが語り、これは死後公開されるので言えるのですが、という台詞があったが、自らの死後への呼びかけは現在の生と別の物を想定するのではなく、現在に直立するような形で行われる時、我々が今ここにあることの強さ、喜び、美しさ、として世界に横溢していくように感じる。
ここでも思い浮かべるのは、フーコーの言葉だ。
「わたしが驚いているのは、現代社会では、技芸(アート)はもっぱら物体(オブジェ)にしか関与しない何かになってしまい、個人にも人生にも関係しないという事実です。技法が美術家という専門家だけが作るひとつの専門になっているということですね。しかしなぜ各人めいめいが自己の人生を一個の芸術作品にすることができないんだろうか?なぜこのランプとかこの家が一個の美術作品であって、わたしの人生がそうでないのか?」(「ひとつのモラルとしての性」青土社『現代思想』1984.1浜名優美訳)
彼女は「一般財団法人竹村和子フェミニズム基金」を残し、研究費に苦労するフェミニズム研究者向けの支援を行っている。
直接交流があったわけでもなく、彼女の著作や翻訳を書棚には並べていても決して良い読者でもなかった(フーコーやドゥルーズらに比べてどこか読みづらいと感じて後回しにしていた)にもかかわらず、その僅かな生の断片が引き起こす「重力波」が安らぎや、勇気を、遠いこの「私」にもたらした。
たった一度その生の姿を見たその日、その会場に向かう大学の構内での燃え上がるような銀杏の黄金の樹形にその記憶は重なる。
ー記事をシェアするー