苛立つ「自己」、をめぐる模索 山本シュウ氏の講演を聴いて
2014年2月6日
2020年7月10日
2014/02/06
会社や地域では意外と冷静に問題の脈路を考えてそれなりの対応が出来るのに、家族の中でそのように対応するのは難しく、ついつい、その場面で生まれた感情をそのまま孕んで「自己」意識になっていることに気付く。 まだ「分別」を形成過程の「子ども」や、私が強く合一性を求めてしまいがちな「妻」との関係において、そう感ずる。
それは「家族」だからというよりも、何かの目的に向かって考える空間であれば共通の見解に達することも出来るのに、様々な脈路で出来上がっってしまった限りでの「自己」を前提にして、そのそれぞれの「自己」がふるまう空間ではかならず生まれる事態なのだ、と最近は考える。
先日、小学生の子どもの縁で山本シュウさんという、5年間PTA会長を務め、著作や様々な発言、社会活動をしている方の講演を聴くことが出来た。
「We are シンセキ」 というスローガンで、内容自体は子どもと接する現在の親達の苛立ちや戸惑いにうまく対応できるものだったと思い、感心した。ところが、最後の場面で考えされられた。それは海軍兵学校や特攻隊の兵士達の手紙などにふれつつそういった人々のおかげで自分達がある、という様式の思考がバックミュージックに乗せて述べられる場面だった。
もちろん、その部分も彼の思考様式の必然的な結果でなくてはならず、問題は、では、それがどのような特性を持っているが故にそのようなエンディングが可能になったのか、ということになる。
これは、最近、百田という人が書いた小説「永遠のゼロ」を元にした映画が「泣ける」といって若い人にも人気で、知人が働く会社の若い女性社員も、映画の最後を見たら靖国神社に行きたくなる、と語っていた、と聞いて感じたことと同じであり、大きく言えば、明治期以降の「日本」的な思考様式を対象化して分析することに他ならない。
結論的に言えば、「日本」において、自殺(特攻)を強いられてこれから自らを納得させて死ぬ者の言葉が誰に向かい、どのような語彙で語られているか、という分析が必要であり、おそらく、それは当時の世界情勢や当事者として一兵士として戦っている戦争の意味の分析ではなく、それらも含めて自己意識、家族、郷土といった球体内で閉じて行く自己循環の高揚感に帰しており、それが「日本」の特徴であるということになるのではないかと推測している。
日本の特攻隊員の遺書の言説分析、またその(生き残った者達による)活用方法についての分析が、同時期に、あるいは現在でも良いが、他国の兵士によって書かれたもの、「革命戦士」あるいは「自爆テロ」実行者の遺書のようなものの分析とともに比較されなくてはならないだろう。
最近は、テレビを、新聞を、インターネットを流れている日本語が、私には外国語に聞こえる。含羞を抱えながらその中を通り抜けている日々、アーカイブスの中にある言葉としてそれらを分析しようとする時間によって私は辛うじて、大地と、今は無き様々な人々と接地して生きていることを感ずるのである。
以下、山本シュウ氏へのメールである。Webサイトの運営者を通じて本人には転送されたと言うことだった。
1月23日の PTA連絡協議会主催の講演を聴かせて頂いた者ですが、当日アンケートを出せなかったのでメールでお送りさせて頂きます。
御笑覧ください。ご参考にして頂けましたら幸いです。
*****************************
Eテレのバリバラでお見かけしておりましたが、最初から最後までパワフルなステージに圧倒されました。会場で具合が悪くなった方を見てすぐにステージを飛び降りてその場に駆けつけるところなど、なかなかカッコイイですし、その直後の、「発作時の動画が後に医療関係者の判断材料になる」という話しも納得できました。日頃から山本さんがどうしたら「お節介」になれるかアンテナを張っているのだなと感じます。
もちろん話の内容も、非常に実践的で私自身の役に立ちました。
相手の言動に一瞬「かっ」となってしまう「自分」から、相手も自分もなぜそう思ってしまうのかという思考へと感情をずらしていくというやり方を「幽体離脱法」と名付けられたのには感心しました。まさに「認知行動療法」ですね。
いかにも現在子供を持つ家庭内でありそうなやり取りから展開する具体的な手立ての例示には大いに感謝します。
さて、その上で、2点気付いたことを申し述べさせて頂きたく存じます。
①私たちの命がいかに多くの人の命の流れの結果であるかを示すために、両親をたどると自分の何代か前までには何千何万という人が居る(両親=2人、その両親=2×2=4人、更にその両親=4×2=8人・・・・・以下続く)というお話しがありました。
確かに父母という「位置」の数はそのように2の2乗、3乗と指数関数的に増えていきますが、実在の人間はそのように増えてはいきません。もし実在の人間がそのように過去に逆上るほど増えていったら人類は過去のほうが人口が多いことになってしまいます。
そんなことがあり得ないのは、父親と母親のそれぞれの系統を逆上っていくと必ず同一人物に重なる人がいるいるからです。何代目かの母方の祖先と何代目かの父方の祖先は同一人物になっているはずです。言い換えればある人の子孫同士が何代か後には結婚しているということを意味しています。未来についていうならば、どこかで私の子孫同士が結婚し、さらに子孫が産みだされるということです。
まさに「We are シンセキ」なのですが、そのイメージは、私たちの父母の系列を過去に扇状に拡散させる形式ではなく、現在の科学者達の見解、すなわち、現生人類は約20万年前にアフリカで誕生し5,6万年前から地球上に展開していった(その過程ではネアンデルタール人とも混血していたらしいという記事も最近新聞で見ましたが)という、時間と共に扇型に展開しまた網目状に連結して、その結果現在生きているすべての各人が存在する、人間は皆同じご先祖様、というイメージのほうが適切なのかな、と思いました。
②エンディングの場面で音楽に乗せて江田島の海軍兵学校の記念館、知覧の特高記念館、ひめゆりの塔の語り部によせて、彼ら彼女らのおかげで自分達がある、というお話しがされたと思います。
特に、死にゆく若い兵士達が着ていた制服の展示や残された家族への手紙への感動が語られていました。これにはいままでのお話しの流れとの強い違和感を感じました。
これは、「We are シンセキ」のWeがどこまでを指しているのだろうか、という疑問に帰します。
戦争ですから相手(敵)がいます。その敵の一人が家族や故郷に残した手紙や何かは同じように山本さんを感動させるのではないでしょうか。
そうであれば、国家間の「戦争」という現象にも、親子や学校内での日常の「戦争」という現象に対してと同じく、「幽体離脱方」を適用すべきではないでしょうか。
先ほど述べたような現在の科学者達の見解に従えば「We」は地球上のすべてのヒトに拡張せざるを得ないのですが、国家なり民族なり、部族なり、歴史の中で構成されてきた何らかの帰属性で限定された限りでの「We」をそれ以上分解できない自明なものとして、そこから出発してしまうのはやはり誤りであると思います。
私は、祖母や叔父叔母が戦争で死んだ世代に属しますが、その人達が生きていたならばあり得た人生を思うと、なぜそのような戦争に到ったのか、今後我々はどのようにしてそれらが再び起こらないようにすべきなのか、それが彼らから私に架けられた問いかけであると理解しています。
実際の戦争がどうであったか、NHKのWeb 戦争証言アーカイブスで経験者の話を聞くことが出来ますので、ぜひご覧下さい。
http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/
ややこしいことを独りよがりに述べている、ということになってしまったかも知れませんが、どこかで、ここで私が述べたこと対する山本さんのお答えに出会えることを期待しています。どうぞ今後も健康に留意されご活躍なさることをお祈りします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。失礼します。
それは「家族」だからというよりも、何かの目的に向かって考える空間であれば共通の見解に達することも出来るのに、様々な脈路で出来上がっってしまった限りでの「自己」を前提にして、そのそれぞれの「自己」がふるまう空間ではかならず生まれる事態なのだ、と最近は考える。
先日、小学生の子どもの縁で山本シュウさんという、5年間PTA会長を務め、著作や様々な発言、社会活動をしている方の講演を聴くことが出来た。
「We are シンセキ」 というスローガンで、内容自体は子どもと接する現在の親達の苛立ちや戸惑いにうまく対応できるものだったと思い、感心した。ところが、最後の場面で考えされられた。それは海軍兵学校や特攻隊の兵士達の手紙などにふれつつそういった人々のおかげで自分達がある、という様式の思考がバックミュージックに乗せて述べられる場面だった。
もちろん、その部分も彼の思考様式の必然的な結果でなくてはならず、問題は、では、それがどのような特性を持っているが故にそのようなエンディングが可能になったのか、ということになる。
これは、最近、百田という人が書いた小説「永遠のゼロ」を元にした映画が「泣ける」といって若い人にも人気で、知人が働く会社の若い女性社員も、映画の最後を見たら靖国神社に行きたくなる、と語っていた、と聞いて感じたことと同じであり、大きく言えば、明治期以降の「日本」的な思考様式を対象化して分析することに他ならない。
結論的に言えば、「日本」において、自殺(特攻)を強いられてこれから自らを納得させて死ぬ者の言葉が誰に向かい、どのような語彙で語られているか、という分析が必要であり、おそらく、それは当時の世界情勢や当事者として一兵士として戦っている戦争の意味の分析ではなく、それらも含めて自己意識、家族、郷土といった球体内で閉じて行く自己循環の高揚感に帰しており、それが「日本」の特徴であるということになるのではないかと推測している。
日本の特攻隊員の遺書の言説分析、またその(生き残った者達による)活用方法についての分析が、同時期に、あるいは現在でも良いが、他国の兵士によって書かれたもの、「革命戦士」あるいは「自爆テロ」実行者の遺書のようなものの分析とともに比較されなくてはならないだろう。
最近は、テレビを、新聞を、インターネットを流れている日本語が、私には外国語に聞こえる。含羞を抱えながらその中を通り抜けている日々、アーカイブスの中にある言葉としてそれらを分析しようとする時間によって私は辛うじて、大地と、今は無き様々な人々と接地して生きていることを感ずるのである。
以下、山本シュウ氏へのメールである。Webサイトの運営者を通じて本人には転送されたと言うことだった。
1月23日の PTA連絡協議会主催の講演を聴かせて頂いた者ですが、当日アンケートを出せなかったのでメールでお送りさせて頂きます。
御笑覧ください。ご参考にして頂けましたら幸いです。
*****************************
Eテレのバリバラでお見かけしておりましたが、最初から最後までパワフルなステージに圧倒されました。会場で具合が悪くなった方を見てすぐにステージを飛び降りてその場に駆けつけるところなど、なかなかカッコイイですし、その直後の、「発作時の動画が後に医療関係者の判断材料になる」という話しも納得できました。日頃から山本さんがどうしたら「お節介」になれるかアンテナを張っているのだなと感じます。
もちろん話の内容も、非常に実践的で私自身の役に立ちました。
相手の言動に一瞬「かっ」となってしまう「自分」から、相手も自分もなぜそう思ってしまうのかという思考へと感情をずらしていくというやり方を「幽体離脱法」と名付けられたのには感心しました。まさに「認知行動療法」ですね。
いかにも現在子供を持つ家庭内でありそうなやり取りから展開する具体的な手立ての例示には大いに感謝します。
さて、その上で、2点気付いたことを申し述べさせて頂きたく存じます。
①私たちの命がいかに多くの人の命の流れの結果であるかを示すために、両親をたどると自分の何代か前までには何千何万という人が居る(両親=2人、その両親=2×2=4人、更にその両親=4×2=8人・・・・・以下続く)というお話しがありました。
確かに父母という「位置」の数はそのように2の2乗、3乗と指数関数的に増えていきますが、実在の人間はそのように増えてはいきません。もし実在の人間がそのように過去に逆上るほど増えていったら人類は過去のほうが人口が多いことになってしまいます。
そんなことがあり得ないのは、父親と母親のそれぞれの系統を逆上っていくと必ず同一人物に重なる人がいるいるからです。何代目かの母方の祖先と何代目かの父方の祖先は同一人物になっているはずです。言い換えればある人の子孫同士が何代か後には結婚しているということを意味しています。未来についていうならば、どこかで私の子孫同士が結婚し、さらに子孫が産みだされるということです。
まさに「We are シンセキ」なのですが、そのイメージは、私たちの父母の系列を過去に扇状に拡散させる形式ではなく、現在の科学者達の見解、すなわち、現生人類は約20万年前にアフリカで誕生し5,6万年前から地球上に展開していった(その過程ではネアンデルタール人とも混血していたらしいという記事も最近新聞で見ましたが)という、時間と共に扇型に展開しまた網目状に連結して、その結果現在生きているすべての各人が存在する、人間は皆同じご先祖様、というイメージのほうが適切なのかな、と思いました。
②エンディングの場面で音楽に乗せて江田島の海軍兵学校の記念館、知覧の特高記念館、ひめゆりの塔の語り部によせて、彼ら彼女らのおかげで自分達がある、というお話しがされたと思います。
特に、死にゆく若い兵士達が着ていた制服の展示や残された家族への手紙への感動が語られていました。これにはいままでのお話しの流れとの強い違和感を感じました。
これは、「We are シンセキ」のWeがどこまでを指しているのだろうか、という疑問に帰します。
戦争ですから相手(敵)がいます。その敵の一人が家族や故郷に残した手紙や何かは同じように山本さんを感動させるのではないでしょうか。
そうであれば、国家間の「戦争」という現象にも、親子や学校内での日常の「戦争」という現象に対してと同じく、「幽体離脱方」を適用すべきではないでしょうか。
先ほど述べたような現在の科学者達の見解に従えば「We」は地球上のすべてのヒトに拡張せざるを得ないのですが、国家なり民族なり、部族なり、歴史の中で構成されてきた何らかの帰属性で限定された限りでの「We」をそれ以上分解できない自明なものとして、そこから出発してしまうのはやはり誤りであると思います。
私は、祖母や叔父叔母が戦争で死んだ世代に属しますが、その人達が生きていたならばあり得た人生を思うと、なぜそのような戦争に到ったのか、今後我々はどのようにしてそれらが再び起こらないようにすべきなのか、それが彼らから私に架けられた問いかけであると理解しています。
実際の戦争がどうであったか、NHKのWeb 戦争証言アーカイブスで経験者の話を聞くことが出来ますので、ぜひご覧下さい。
http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/
ややこしいことを独りよがりに述べている、ということになってしまったかも知れませんが、どこかで、ここで私が述べたこと対する山本さんのお答えに出会えることを期待しています。どうぞ今後も健康に留意されご活躍なさることをお祈りします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。失礼します。
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