一人になること
2010/01/17
いかに一人になるか。
そのことの切実さは何かに向かって行くための体勢が迫られているとき身にしみてくる。
ことば、同居する者がつけているテレビの音声、新聞紙上の様々な意見、会社でのばかばかしきやり取り、「お金」をいかに多く得るかという軸による展開のことばは疲れさせる。私にその同一平面で発言(現)することを強いてくるが故に。
それに応じないこと、ぐっと飲み込んで、もっと遠くへ、外国語を分析するように、異邦の人としてその世界を歩いて行くこと。徹底的な分解は自由と深い青空を胸に与えてくれる。
そのために、深夜自分の部屋に鍵をかけ、やっと自分にもどったと感ずるとボードレールは書いていなかったろうか、ヴァージニア・ウルフは女には鍵のかかる部屋が必要だと言っていなかったろうか、最近日本語訳が出たイリヤ・カバコフの「プロジェクト宮殿」には何か難しい課題に取り組むときに集中するためにタンスを書斎にして閉じこもるという方法が書かれていた。
だが、そのような物理的な隔離、というものすらも実現しないままに一人であることはどうしたら可能だろうか。
多くの人とともにいながら、一人でいることとはどういう事だろうか。それはたぶん、ことばに標的にされ、受け身になり、発言を強いられるのではなく、そこにあることばを解析する動作に自らを生成できたときの状態を指すことになるだろう。
そのような、一人、である状況は、その支配的な言説の支配する空間とは途切れた「一人」であることによって、別の次元での共同的な、集団的な自らとして共同的な複数形になっているだろう。