デリダ 「パピエ・マシン (下)」ちくま学芸文庫 中山元 訳 からの抜粋ノート
時代のために書くということ、それは受け身になって時代を写しだすということではない。時代を保持し、時代を変革すること、未来に向かって時代を超越することである。そしてこの時代を変革しようとする試みによって、われわれは時代のうちのもっとも深いところに身をおくのである。……時代はたえずみずからを追い抜きつづける。時代においてこそ、時代を作りだすすべての人間の生ける将来と、具体的な現在とが厳密に一致するのである。 p.55
ところで現代(タン・モデルヌ)とそれに続く時代は、公的なものと私的なものという危うい区別のもとである日に西洋で確立された制度を、これまでにない激しさで揺るがすきわめて強烈な<地震>を経験しているのだと思います。p.62
「政治的に中立であるかのようにふるまわない」こと、それはある政治的な陣営を選ぶべきだということは意味しません。わたしたちはそのことは拒否しているはずです。世論がどちらかに傾いているかに応じて、実際の対立の基本的な枠組みを構成している二つの陣営のどちらかを選択することではないのです。p.121
それどころか今日において政治的な責任を負うということは、この枠組みそのものを中立的で動かすことのできない〈事実〉として、認めてしまわないことにあると思います。p.121
政治的な責任を負うということは、このような枠組みなど存在しないこと、民主主義に訴えるとは、こうした枠組みとは違う場、違う力、違う生、違う人民に訴えるものであることを口で語り、実践において示しながら証明することにあるのです。p.122
↑フーコーが、(吉本隆明的な)「大衆の原像」的な形象化概念を批判するのと同質
政治的な解決策というのはもはや、あれこれの国民国家の市民を最後の審級とすることはできないのです。p.123
↑ いわゆる民族自決論を批判して
アルジェリアにおける新しい〈第三身分の国家〉と呼びたいものへの支持
この同じ民主主義の欲求は、他方では同時に市民的な平和の要求(アピール)でもありますが、これはわたしたちの側からも、わたしたちが連帯する人々の側からも、アルジェリアの国内で暮らしている人々、反民主主義などちらの陣営の装置にも、どちらの陣営にも自分たちの意見が代表されていないと感じている人々の生ける力からしか生まれないのです。こうした生ける場からしか、生活の現場からしか、希望は生まれることができないのです。わたしが希望を託しているのは、特定の国家のうちにも(それが現状でもあるのですが)、暗殺、殺害の脅迫、そして殺害そのものの手段で国家と戦っている組織にも、みずからの代表をみいだすことのできないアルジェリアの社会です。p.128
ほんとうの意味で名づけることのできる概念などあるでしょうか。一つの名前、一つの語で〈名づける〉ことのできる概念を考えられるでしょうか。概念とはつねに文章を、議論を、仕事を、プロセスを必要とするものです。一語で言えばテクストを必要とするのです。p.192
問題構成とはすでに、応答を分節化して編成したものです。・・・・・・・
問いが避けられないものであるということは、哲学の本質そのものであるだけでなく、哲学の無条件の権利と義務でもあるのです。それは、哲学が科学や権利と同じ土台をもつということでもあります。p.196
脱構築はたとえば権利ではない正義を「肯定する」と語ります。・・・
正義の名において権利を脱構築するということです。アメリカ合衆国やフランスの「市民的不服従」のことを考えてみてください。上位にある権利の名において(たとえば人権の普遍性の名においてです)、または権利のうちにまだ書き込まれていない正義の名前において、国の実定法的な合法性に反対することです。人権そのものにも歴史があり、たえず豊かになりつづけ、たえず限界を超出し続けているのです。
これから来たるべき正義の名において、現行の法的な制約にたえず異議を申し立てることができるのです。・・・
権利を作り直し、改善し、決定し、場合によっては脱構築するのは、正義の名においてです。要するに権利には歴史があると言うことです。pp.279-281
厳密な意味では近代のナショナリズムは、国民国家という最近の形式、この廃れる可能性のある形式と結びついたものなのです。この本質的な脆弱性のために、この国民国家の「危機」のために、ナショナリズムは反動的で痙攣的な運動であり、見かけは攻撃的ですが、怯えによって生まれた運動なのです。自国への愛を推奨するだけでは満足できず(これは正常で根拠があり、いずれにしても抑えることができないことです)、覇権を目指した意図をかきたて、国家の至上命令のもとにすべてをしたがわせようと望むのです。よく言われますように、ナショナリズムは主権至上主義的なものであり、常に国民国家と結ばれているのです。p.284
主権至上主義
この語は権力の全能の能力と自己決定を意味します。制限のない無条件の権力です。絶対君主制においては、国家に体現された主権者の全能の権力は、神聖なる権力でした。この至高の主権がのちに国民に譲り渡されたのです(しかしルソーが『社会契約』で語っているように、これも相変わらず「聖なる」主権だったのです)。
この民主主義化またはこの共和的な人民主義化も、神学的な系譜を抹消することはなかったように思えます。国民国家の主権にたいするすべての異議申し立てを通じて(こうした異議申し立ても多かれ少なかれ問題含みのものですが)、世界において現在起きていること(湾岸戦争、コソヴォ、ティモールなど)から考えて、わたしたちはこの遺産を(ご希望なら)「脱構築する」こと、すなわち再解釈することを求められているのです。
FM それは未来のある理念なのですか。
JD イエスであり、ノーであります。そのためには長い時間がかかるでしょう。そしてみずからを分割し、その形式と場所を変えながら行われることでしょう。この理念には神学的な起源と西洋という起源が維持されているものの、あらゆる場所で、自由と自己決定の価値と分かちがたく結ばれているのです。ですから主権の概念を単純に非難することは
困難であり、危険でさえあるのです。これについては、慎重で差異のある脱構築が、破壊的な批判とは異なる形で遂行される必要があるのです。pp.258-286
FM最近ではアイデンティティの復権が流行していますが、これについてはどう考えられますか。
JD「アイデンティティ」に反対することができる人などいるでしょうか。しかしアイデンティティではなく同一なもの、同一至上主義は、ナショナリズムや共同体主義と同じように、権利の普遍性を認識せず、独占的な差異を培養し、差異を対立に転換しようとします。この対立は逆説的なことに、差異を抹消させる傾向があることを、わたしは証明しようとしてきました。ただし抑圧や排除が行われている状況のもとでは、「同一至上主義」的な動きや戦略も、根拠のあるものとなりうるとは思います。ある程度までは、そしてごくかぎられた状況のもとではですが。pp.286-287
文化的なアイデンティティを要求することで、二つの重要なリスクが無視されかねないからです。第一のリスクは、文化的なアイデンティティの要求は、特定の条件と限度のもとでは正当なものですが、右翼の「イデオローグ」、ナショナリストや原理主義者や、ときには人種差別主義者たちの主張に根拠を与えかねないからです(わたしは文化的なアイデンティティの要求にコミュニタリアニズムを含めていますが、ほかにもいろいろとあります)
第二のリスクは、文化的なアイデンティティを要求することで、もっと別の戦い、すなわち社会的あるいは市民的な連帯や普遍的な大義が二の次にされ、はなはだしく無視されるおそれがあることです。こうした普遍的な大義とは、たんにコスモポリタン的なものではなく、国家の枠組みを超えたものです。というのはコスモポリタン的なものは、まだ国家と市民という審級を必要としているからです。たとえ世界の市民にせよです。 pp.299 太字引用者
もっとも権利とはつねに、わたしが正義と呼ぶものと一致することはありませんが(正義は歴史と進歩を権利に導くものではあっても、正義と権利は同じものではありません)。p.300
↓『マルクスの亡霊たち』で言及した「新しいインターナショナル」について
わたしが考えているのは世界的な連帯のことです。この連帯は沈黙のうちに行われることが多いのですが、ますます効果的なものになりつつあります。この連帯はもはやかつての社会主義インターナショナルのような組織として定義できるものではありません。ただわたしが〈インターナショナル>という古い名前を採用したのは、国境を越えて労働者と抑圧された人々をふたたび結びつけることができるはずの革命と正義の精神のようなものを思いだしてほしいからです。
この連帯は国家のうちにも、国家の特定の権力が支配する国際的な審級のうちにも、みいだされるものではありません。非政府組織(NGOや「人道的」と呼ばれるいくつかのプロジェクトに近いものですが、こうした枠組みを超えて、国際法とその運用方法の根本的な変革を求めるものです。
マクロな統計、すぐにうんざりして忘れてしまうような統計から、いくつかの実例をあげておきましょう。飲料水のために毎年数百万の子供たちが死んでいます。世界の半数近くの女性が殴られ、ときには死にいたるような虐待をうけています。六○○○万人もの女性が行方不明になっており、三○○○万人もの女性が身体を毀損されています。エイズの患者は世界で二三○○万人もおり、そのうちの九○パーセントはアフリカ人です。そしてエイズの研究予算の五パーセントしかアフリカ人に費やされておらず、西洋のごく狭い範囲でしか三剤併用療法は利用できません。
インドでは女の赤子の間引きが行われていますし「多くの諸国での孑供の労働条件は信じられないほど過酷なものです。世界の文盲者の数は一○億人に達し、一億四○○○万人の児童が就学していないといいます。死刑制度が維持され、アメリカ合衆国ではきわめて問題のある形で死刑が執行されています。ちなみに西洋の民主主義国のうちで死刑を維持しているのはアメリカだけです。アメリカは児童の権利条約に加盟しておらず、未成年のときに宣告された刑を、成人に達すると同時に適用する国でもあります。p.304
「インターナショナルな」連帯が求められる問題の大きさ、として以下の様につなぐ。
いかなる国家も、いかなる党派も、いかなる組合も、いかなる市民団体も、ほんとうの意味ではこの問題にとりくんではいないのです。この新しいインターナショナルに所属するのは、すべての苦しんでいる人々、こうした問題が切迫したものであることに無関心でいられないすべての人々、市民として国民として所属するところとかかわりなく、政治、権利、倫理において、この問題への注目を高めようとしているすべての人々です。p.305
わたしが前提としているのは次の最小の公理、すなわち左翼とは未来を肯定し、変革しようとする欲望のことであり、可能なかぎり最大の正義を実現する方向で、未来を変えていく欲望のことであるという公理です。わたしはあらゆる右翼は変化と正義に鈍感であるなどとは申しません(それは正義に反することでしょう)。しかし右翼が変化と正義を、行動の第一の原動力とすることはありませんし、公理とすることもありません。左翼はつねに「資本」による収益よりも、「労働」からの収入を重視するという区別は、まだ時代遅れのものにはなっていないのです(労働の概念そのものに根本的な変動が生じているのはたしかですが)。
右翼はいまでも、資本が労働の条件だと主張するでしょう。「右翼」であるということは、何かを保守しようとするということですが、いったい何を守ろうというのでしょうか。保守しようとするのは特定の利益であるよりも、もっと深いところにある権力、富、資本、社会規範、「イデオロギー」などなのです。右翼が守ろうとするのは個別の政策であるよりも、つねにもっと深いところで「政治的なもの」の特定の伝統的な構造そのものを、市民社会、国民、国家のうちに成立している関係の特定の伝統的な構造を守ろうとしているのです。この左翼と右翼という対立関係を維持するならば、首尾一貫して左翼であること、日々左翼でありつづけることは、決してたやすいことではありません。そのことはよく存じております。左翼であること、それは困難な戦略なのです。 p.306 太字引用者
あらゆる政治的な実験には、そのもののうちに哲学的な次元があるものなのです。あらゆる政治的な実験は実質的に、国家の本質と歴史についての考察を伴うのです。すべての政治的な革新は哲学にかかわってくるのです。「真の」政治的な行動はつねに哲学を引き込むのです。すべての行動、すべての政治的な決定は、固有の規格や規則を発明せざるをえないのです。そしてこうした身ぶりは哲学を含み、哲学を横断するのです。p.308