論理の不徹底性=思考対象と思考主体という二項性の保存
2001/05/18の覚書から
情報源
中国政府の人権侵害を論ずる者たちは、なぜか彼が「属する」「自ら」の国内での人権侵害についてはけして見いださないことについては、彼等が、「従軍慰安婦問題を云々して「日本=我々」を非難する連中は、中国がチベットにもっとひどい人権侵害を現在行ってる事に口をふさいでいる」などと言って「対抗」したつもりになっている態度(雑誌『正論』2001.06号「女性国際戦犯法廷よなぜ中国に抗議しない」酒井信彦)を、自らへ転轍させることによって、すなわち論理的な徹底によって、彼等の思考を進め、中国政府の或る人権侵害を非難する彼等がなぜ、さらに別の中国政府の人権侵害(農村住民の移動の禁止、国内での貧富の格差etc)、の人権侵害を言わないのか、またそれらの人権侵害(たとえば職場での)は日本国内(自らの身体)にも共通している問題であることを導入させる事で、「誰々ちゃんだってやってるのに僕だけなぜ怒られるの」という水準の単なる子供の言い合いから論理的な社会構成の主体へと生成させることができるだろう。
彼等が部分的にしか、すなわちある事項のみを声高に「人権侵害」として告発することしかできないのは、観察によれば、彼等が労使関係や、男女差別等の、場面に於いて差別する側の思考であることと同時成立である。彼等は基本的には敵味方の弁別によって快楽を得る体感(エロス)で作動している思考体なので。常に「敵」を必要とし、それなくして生存できない身体=主体なのである。そのために、彼等のその身体から出発し、彼等の第一義的な対抗戦略である、「①人権派は或る勢力に依拠している。=自己と対抗する二極性への世界の集極化②そして彼等が依拠している勢力が行っているこんな人権侵害に彼等は目をつぶっている=③だから人権派の言っている人権侵害指摘はうさんくさい。」というスタイルの、人権侵害の告発を如何様にも無効化できると信じられている論理を、彼等自身に向けて転轍し導入することが必要なのである。結局彼等にとって「人権」などイチジクの葉っぱであり、対抗性による「自己」と「敵」の弁別感の昂進、その輪郭感の高揚点での、自己抱擁と発散こそがエクスタシーとして彼等の欲望に回収される。 中国政府がスペイン隊にチベット仏教とヒンズー教の聖地であるチベットのカイラス峰への登頂許可を出したということをめぐる朝日新聞2001.05.18記事でのチベット出身ペマ・ギャルボ教授の「人権侵害だ」発言も参照。「人権侵害」は中国政府が、なのか、登頂申請したスペイン隊なのか、両方なのか。
メモ
強い論理性と、弱い論理性。
強い論理性とは「論考するもの」自体を編成(変成)する(生成する)効力を持つ拡大化(拡張化)された論理であり、弱い論理性とは、論理が不徹底のために、論理の展開空間を対象的に限定してしまい、その結果、その対象性に対応する此岸としての項目=「論考するもの」を成立させることで、論考自体の脈路、への検証を免れ続け、思考対象と思考主体という二項性を保存し続ける動作、言い換えれば無根拠に孤立した特異な主体(すなわち恣意性)を維持し続けてしまう、そのようなタイプの論理、その不徹底性を指摘した語である。
追記 2021/12/15
20年前のこの記述に加えるべき事はない。
しかし、問題は、ここでもまだ、「批評」の「対象」が想定されており、その或る「思考の形式」「について」「陳述する」という形式に収まってしまっているということだ。
現在は、このような陳述の範型を乗り越えて直接的に語り始める、そのような次元での言葉を求めて、苦闘が続いている、と言ってみることは出来る。
しかし、批評の「対象」が「基体化」されることなく、「自解性」をもつ「結節」として捉えられている、その様な論理空間であるならば、陳述の範型として二つを対比する必要も無いのかもしれない。