家族と「我々」の編成 ―― 「自然」という地平を転覆する
1994年8月の季報唯物論研究/大阪哲学学校夏季合宿における「家族論」についての発表後、論文集のために書き始めたが、結局完成できなかった未定稿と断片。
傍点は下線に変換。一部重複削除。
ファイル名 家族論_B.-a.jtd 1998/8/23 13:13
はじめに
とりあえず、「家族とは何か?」、という設問の仕方は避けることにしよう。
「~とは何か?」という問い、無条件に突然提示される「~」、そしてそれに対し「~とは‥‥である」という回答で呼応するという完結自体が、すでにしてすべての「~」、ここで言えば「家族」、に対するある位置づけを前提にしているように思えるからだ。そこでは、「~」、すなわちこの場合「家族」と呼ばれる事柄、はすでに「自己」の外に事実として存在していると見なされており、分析されるべき「それ」として対象的に成立しているのではないだろうか。それは、そのような、「自己」と「対象」との双対的な循環として成立しているある主体の様式自体については、その前提性を分析できない、不十分な思考なのではないだろうか。そのようなものではなく、徹底的な内在性の相において分析すること、現実にこの日本語の「家族」という語にまみれ、それを含んで作動しているこの「我々」という場に内在するあらゆる「家族」をめぐる脈路---それらは、対立し、交差し、同調し、延長し、互いに支え合い、また、闘っている、そのような多声性なのであるが---その様々な力動の最中において「私」が解決せねばならない問題の一つとして、その「家族」という問題に入って行くようにしたい。その立場はこれからの思考に、たとえば次のようなことを義務づけるだろう。
①何らかの対象物化した位相ではけっして「家族」を主語の位置におかないこと。ある表現、概念として取り扱うこと。
②その思考の試みが示す方向性がそのまま私の生きて行く方向性であるような現実的試みであること。
③その思考の試みが導く概念内容はすべての人に当てはまるようになるまで「推敲」されなければならないこと。(たとえば、孤児で育ち独身で死ぬ人にも適合すること)
④要するに、「家族とは何か、どんな内容を具備するものか?」というような対象志向性の問いではなく、その「家族」という概念を表現するに至っている我々の脈路を問題化し、我々がいかに生きるか、どのような「我々」を構成していくか、の実践的な活動の一部としての、「家族=概念」をめぐる論考になること。
また同時に、すでに我々の前には、家族あるいはその圏内である親族関係、婚姻規則、人工生殖技術などついての歴史的な、また各地の、様々な事例が研究・報告されており、それらを整合的に理解内包してしか、それ以降の思考は進めないはずである。しかしそうした事例は、あまりに多様であり多数であるために、とても私には、参照し尽くしたりまた個別の脈路にそって理解し尽くすこともできないのである。ところがそれらの事例が、「私」、すなわちある特定の時代と地域で形成されたものとしての「私」、の「常識・自明性」では想像もできないほど多様である、という位相に着目するならば、それらの膨大な知見や思考の集積を次のような形に写像することで、「私」はそれらすべての及ぼす効果をコンパクトに内包したものとして作動可能になった、とはいえないだろうか。
すなわち、<「我々=人類」がこのような膨大な親族編成や婚姻規則の多様性を内包可能な存在である以上、そのようにしてそれぞれの時代や地域で異なる「我々=主体化の様式」というものが可能である以上、今ここに「家族」という概念を生きているこの「我々」も、未来に続く自明な、固定した地盤などではありえない>、と。
すると問題は、私たちが日常的に生きている「家族」という概念のいくつかの部分についてそれがどのような構造や地平線を持っているかを解析し、その結果がどのような方向に我々を変成させるのか、それが賭けられるべき試みだということになるだろう。
そしてここでは特に、「生物としての我々」、として位置づけられるあり方から「家族」という構成について分析してみたい。
一 連関の水準
1 血縁関係
①ある部族においては生理学的な父の観念がなく、ある精霊的な力が子供の出産の原因をなしていることを主張している。②ある部族においては、母が肉と血との紐帯によって子供に関係している唯一の親とみなされている。③一方で、父が唯一の真の生殖的要因と考えられ、母は単に種子を受ける田地と考えられるにすぎない社会がある。④それらと全く別に、出自、すなわち子供の社会的地位を決定する組織、は父によっても母によっても数えられることなく、子供の出生の事情により、あるいは女子の妊娠中または分娩後に行われる、ある社会的行為によって決定される社会がある。*1
文化人類学者によって報告される、こうした社会での、現在の我々なら家族とか親族と呼ぶに違いない関係に対する多様な理解の仕方に対し、我々が真に驚嘆すべきは、子供がその原因として母と父(卵と精子)を持つものとして理解されていないという問題ではなく、我々とは全く異なる様々なこれらの理解によっても、人々の関係付け、社会の組織化は可能なのだ、ということの方だろう。
現在のものであるこれらの観察の陳述は、我々の常識と同じく、次のことを前提として可能になっている。すなわち、対遇する二つの個体の縁組み(性交)によって別の個体(子)が生まれるという動態理解を骨格として、その内で、①各個体が配偶関係にある場合に帰属するカテゴリーとして、男・女という一対=「性」の設立、そして、②登場する三つの個体位置それぞれに「父」・「母」・「子」という絶対地番を付与すること、である。この基準化された枠組みと比較することによって初めて、「父」-「母」-「子」という、人類が生物である限り時空を超えて同一の絶対位置関係であると定められた諸項が、それぞれの個別社会ではどういう距離や方位、連鎖で関係づけられているか、という差異の分類を言うことも可能になったのである。
現在我々が「家族」という関係性を語るときに、家族をそれ以外の関係と弁別させ、それを家族として規定させているものはこのような、生物・個体的な連鎖だと仮定してみよう。とりあえずそれは「血縁」という語で理解されるものとする。その連鎖は、父親と子供の間に「父」という概念がなく「母の夫」(愛情と保護のもとに自分を育ててくれた男)という概念しかないトロブリアンド島の母系社会など(B・K・マリノフスキー)とは異なり、ヒトの発生機序の因果に沿ったものであり、「我々」の発生と連鎖への科学的根拠、「真理」に沿ったものだ、と考えられている。しかし、現在でもそのような生物個体的な連鎖概念を忠実に「家族」の基軸として適用しようとすれば直ちに、それを根拠にはしていない連鎖をも「家族」は含んでいることに気づいてしまう。たとえば養子という概念である。その上、「親子や兄弟姉妹は血を分けているが夫婦は所詮他人同士」という言葉のとおり、現在の夫婦は血縁関係からみればたいていが「赤の他人同士」であり、夫婦と養子だけの家族ならばそこには何の血縁連鎖関係も無いことがほとんどだろう。新たに家族を形成しようとする「男」「女」は互いの配偶子によって生成された「子」を支点としたいわばV字型の関係において初めて「父」「母」となり、自分たちを含む新たな家族を「血縁」との関係付けで理解可能になるにすぎない*2。
だから、子供のない夫婦でも赤の他人同士でもやはり「家族」である、という現在の常識的見方に従うならば、家族の標識としては、このような「血縁」は、その妥当性を失っているはずである。
しかし、「私たち親子は血縁という自然的(生物的)関係であり家族そのものなのだ」と主張される一方で、「私たちは現実には血縁関係にないが実の親子以上に『親子』(家族)だ」というような言い方もなされる。だとすれば、この、血縁、生物的個体連鎖、自然、などというものが、肯定されるにせよ、否定されるにせよ、そこに必ず関わらざるを得ないものとして、家族概念の中での蝶番の位置を占めているのは間違いないだろう。そして家族をめぐる陳述の中では、親子、夫婦、血縁、生物的個体連鎖、などは自然という地平線で融合してしまい、互いの隠喩として、置換可能なものとして振る舞っているように見える。
しかし、血縁、生物的個体連鎖、我々の自然上の関係、という三者は本当に同値なのだろうか? 言い換えれば、物理、生物学的「自然」は本当に、我々をして「家族」というある特別な関係へと析出させる脈路を内包しているのだろうか? これは検討されなくてはならない。
2 血縁と生物的個体連鎖
まず、「生物的な個体連鎖」の概念は、自分がそれに属している何らかの系統としてそれを表示するためには、必ず、一代前の先祖として誰を指定するかという規則がなければ不可能なのは明らかである。父と母の両方をたどっていけばn代前で2のn乗の「祖‥‥父・母」群へと発散してしまい、その連鎖は「自分」を要にした扇状の樹形図になってしまうからだ。しかし、では、誰もがそのような扇状の、父母、父母の父母、父母の父母の父母‥‥‥という、n2に広がっていく「祖‥‥父・母」を持つのであれば、過去に遡るほど人類の個体数は多かったのであろうか? もちろんそんなことはあり得ないわけで、実在したヒトの個体数より、「父」と「母」の数の方が多くなってしまうのは、一つの個体が重複して何回も「父」や「母」の位置として数え上げられるからにすぎない。これは別々の人が持つそれぞれの扇樹形図に具体的なある人物が重複登場する(別々の人が先祖を同一にする)、というだけでなく、一人の人が持つ扇樹形図の中でも同一人物が重複して登場するということでもある。近代の天皇一族の系図を参照すればわずか百年くらいの間にもそのようなループがいくつも見られる*3。もっと単純で身近な例ではイトコ同士の結婚で産まれた子供がその父母をたどれば三代前に同一の男・女を見いだすことになるだろう。したがってこのことは、奇妙に感じられるかもしれないが、我々はおそらく必ずといってよいほど先祖に、互いが兄弟姉妹であった人々を、しかも何組も持っているであろうということ、言い換えれば、一人の個体から流れ出た「系列」が再び別の一人の個体の上で合流するループ、逆に言うと父母を別々に遡っていくと到達してしまう同一人物、を見いだすだろうということである。
だから自分を要とする扇樹形図も父母の「位置」をたどるのではなく、具体的な個体をたどったとすれば、単調にn2人に増大していくのではなく、ある所では重複してループを作っているのであり、歴代の人類のすべての個体間の生物個体的相関図、という概念にまで拡張すれば、もはやどんな樹形も成さず、立体的な網状の連関しか見いだせなくなるだろう。
したがって、そのような網状の連関から、自分がそれに属するものとして、線形に遡れるものとして抽出された、特定の「生物的個体連鎖」とは、自然によってではなくその先祖として何を選択するかの規則によって分類されたものに他ならないことになる。また生物的な父と母の両方をたどるのであればそのたどる行為の限界を定める(・・・・・・)ことによって、自らの系統として特定化するより他ないのである。現在普通に言われる「血縁」とはこの父と母の両方を一定の限度までたどった扇樹形図を具体的な個体の上に変換したもののことだと考えられる。したがってそれは限界なしの遡行である生物的な個体連鎖と同値ではない。「血縁」は「生物的個体連鎖」の部分集合であるにすぎない。そして父、母、子、兄弟姉妹等の親族名称は生物的個体連鎖の各結節点から見た局地構造のことである。もし生物的な個体連鎖の空間で我々が生きるならば、どんな夫婦同士も、職場の同僚も、生涯でただ一度路上ですれ違った人とさえも、そしてテレビに映っただけの海外のデモ行進の中にいたあの表情との間にも、自分とその人とは何の個体的連鎖もないのだ、と証明することはもはや不可能になるだろう。なぜなら、我々は父母をたどる系列としては単純に発散する扇樹形を各人が持つが、時間軸を遡ればそれぞれの時点において、人類として定義付けられた具体的な総個体数はどうやら遡るほど少数になるようであり*4、この発散と縮減という両方の条件を満たす限り、我々各人が持つ「遡行された父・母の位置」は歴史的具体的個体上において必ず重複しなければならないからである。
3 生物学的連関
生物的個体の連鎖とは、言い換えれば、個体から流出する卵子と精子を鎖にした連関であった。だが、この、個体を構成の単位部品とする連関は現在の生物学的な理解からすれば不十分であり、個体という輪郭を根拠なく基体化していると見なされざるを得ないだろう。生物個体から生まれた別の生物個体、という個体的連鎖と、生物学的な連関は同値ではない。生物学は、個体を分解し個体を横断して展開する諸概念を含んでおり、個体は生物学の論理階梯上に、それらの素材的な機械の特定の結合状態が可能にしている独自の輪郭、一結節、として登場している。したがってそこで行われる、個体をめぐる、あるいは個体を主語にして行われる陳述は、(他の陳述と同様だが)常に自己分解性に開かれていなくてはならないのである。
生物学の陳述の細密化・緊密化によって、我々はその身体においては、個体を横断する諸範疇上で、すべての(他の)身体との多重的な類縁性/非類縁性をもつものとなっている。たとえば我々の一部分である血液はABO型や白血球の型などいくつかの分類基準によって諸グループに区分され、それによって我々は同一や差異の様々な連関内に属することになる。他の遺伝的特性といった範疇においても全く同様である。すなわち、個体全体に対してではなくその膨大な構成要素のそれぞれにおいて、他の個体の同じく膨大な構成要素との間で同一化や差異化の分類を受け、今や我々の生物学的個体・身体とは、様々な部分部分が他の全個体の部分部分と共に、縦横に諸集合を構成するものとなっている。これらは個体全身を対象とする分類や連関付けではなく、部分における連関であり、我々はその空間においては他のすべての個体・身体の「部分」と交錯しているのである。
骨髄移植をとってみることにしよう。白血球型(HLA)が一致せず移植に不適合な親子兄弟姉妹と、一致し移植に適する赤の他人との関係において、彼はその範疇上では、その赤の他人との「肉体的」類縁性にあるのである。このようにして、生物学的な類縁性はひとつひとつ検証されることができるものであり、包括的で曖昧な「個体全体」の類縁性(血縁関係、親子関係として表象される)は生物学的特性の分類空間には存在できない。言い換えれば、親子兄弟姉妹であれば似通っている点が多いが、その人ともっとも多くの点で似通っている別人はその人の親子兄弟姉妹であるとは限らない、ということである。
さて、血縁や家族というものが何らかの生物学的、自然的な水準での連鎖や類縁性を根拠に自らの特異性を主張してきたのだとすれば、結局のところ、以上見てきたように、それらの「根拠」はむしろ生物学的、物理的な我々の構成という次元に行けば行くほど何ら特異なものを構成できず、無意味になっていくのである。
今目前に存在する複数の身体について、その生物学的分析と他の諸条件によって親子兄弟姉妹関係にあるかどうかを高い確率で判断できるとしても、その内の生物学的判断に使用される差異と同一の諸範疇は、親子兄弟姉妹でなくてもその類縁性は成立可能なものである。言い換えれば、親子兄弟姉妹等の関係は、生物学的な類縁関係の中の一部分を占めるにすぎないということであった。しかし、生物学的類縁関係という集合の内部を見るならばそこには親子も兄弟姉妹も赤の他人も含まれていることが見えるのに、親子兄弟関係という部分集合の内部から生物学的類縁関係という全体集合の方を見上げると、自分たちの要素であるすべての親子兄弟姉妹関係というものは生物学的類縁性も満たしている、ということしか見えないために、親子兄弟姉妹関係(自分たち)は生物学的類縁性ということと「同じもの」である、という論理的に誤った結論が出されてしまうのである。このような、一方(A)がもう一方(B)の一部分であるという関係では登場する二項目の関係付けの際には「AならばBである」が成立しても、「だからBならばAである」、は成立しないにもかかわらずである。
目前の個体から出発する限り、生物学的な分析のみによっては親子兄弟姉妹関係の蓋然性は推定できても、親子兄弟姉妹であるという断定は不可能である、ということは、親子兄弟姉妹等の概念がこうした生物学的な身体の属性からでなく他の要素から導かれたものであることを意味している。もちろん、親子という概念は生物学や遺伝子やDNAという概念も存在しなかった大昔からずっとあったに違いないから、そんなことはあたりまえではないか、などと、どうか言わないでほしい。生物学的な分類の水準から始める限りは、決して親子兄弟家族等が特異性を持ち得ないことを示すために、ここまでの分析が必要だったのだ。
さて、生物としての個体的連関においては、論理的に徹底すると、どんな個体間でもその連関がないことを証明するのは困難であると思われた。一方、生物学的な類縁性という視点からは、いわゆる「血の繋がりがある」個体間ですら特異な類縁性は構成できないと思われた。さらに最初見たように、生物的な具体的親子関係が明らかな場合はもちろん、一般的な個体連鎖しか想定できない場合(現在では赤の他人といわれる)でも、「家族」は構成できるのであった(夫婦だけ、あるいは夫婦と養子など)。これらのことからは次のような結論が得られるだろう。家族は、時に自らがそう主張するような個体連鎖、個体の類縁など外在性から規定されるものではなく、むしろ自らをそれとして輪郭付ける、ある内在的な動作としてとりあつかわなくてはならない。
そのためには、「性」という範疇を分析しなければならないだろう。「性」は家族が自らを生物学的な自然に根拠付けるおそらく最強の要素であり、現実の新たな生物個体の生成にあたっても、また、一対の個体が(異性同士であれ同性同士であれ)自分たちを特異な関係としてすなわち家族として内在的に輪郭付ける際にも、作動する範疇だからである。
こういうことではないのか。人が、「家族」を特異な関係として位置づけるとすれば、そのとき弁別の支えになっているのは個体の一般的な連鎖や類縁性から出発した帰納的結論ではなく、出産という「分離産出」の表象や、ファルス(勃起した男性器)あるいはまたは何らかの潜在的力能が及ぼす「力の伝播」という表象など、自己から出発した演繹的な規定であり、逆にその力の伝達を担うものとして個体の連鎖や類縁性は導き出されたのだ、と。分離産出し、力を伝播させるというのは、いずれも「自己」の輪郭保存としての「力」すなわち「権力」に属する概念である。そして現在、少なくとも我々の社会では、その力の伝播を担うものの物理的表象として、自分の卵子、自分の精子、自分の遺伝子などの具体分節、要するに、理解された限りで「自分」が内包する「自然」、が、生物学の知識の進展によって次第に重みを増し神秘的な基体として働き始めつつあるように見える。自分の中を貫いている、自己を輪郭付ける規定性、たとえば「DNA」、それとの対照で組み上げられるものとしての「自己」。人類がそのような生物学的な知識によって自己理解するようになる以前から働いていたに違いない様々な親子や兄弟姉妹といった関係付けは、「生殖や遺伝によって維持される個体」として「我々」が規定されるに従って、「我々の自然的基盤」である生物学的な次元を貫く構造、決定的な審級に基づく関係、として再編定義されてきた、というのが傾向性ではないのだろうか。それ故に、その「決定的なもの」を軸にして、言い換えれば、生物的な親子兄弟姉妹関係としての「血縁」、あるいは生殖が介在する縁組みである「親類」を軸にして、その肯定と否定の、すなわちそれへの拘泥としての陳述が大量に生成されるようになってきたのではないか。 「自己」という結晶の析出にあたってはそれらの生物学的な概念もその結晶構造を決定するのである。
そこで、そのような「自然」によって規定されたものものとしての「自己」、逆に言えば「自己」を規定するものとしての「自然」という像の分析に向かわなくてはならない。それは、「自己」を規定する自然として組み込まれた限りでの「性」をめぐる分析となるだろう。。
*もちろん最終的には、「自己」が自らを(具体的な「自然」によらず、ある特別な共同体としての)「家族」として「他」と弁別するその機序について、分析は進まなくてはならない。
*「自分の」という部分性、「他」の生成。
二 性、生殖
我々は男・女という二つの性をもち、その自然的な分業は我々の肉体的な再生産の必要素であり、また、男女の差異があるとしても人としては互いに対等な存在なのだ、と言われてきた。この言い方は、故に理不尽な男女差別は撤廃されなければならない、我々は意識を変えなくてはならない、という主張とともに、男・女の差異が厳然としてある以上取扱の差異があったとしてもそれは差別ではなくむしろ差異あるものへの適切な対応である、という主張も同時に導き出して来た。また、そもそも「人」という一見無色のカテゴリーで世の中を見ること自体が性による不均衡を隠すばかりか性による差別を現象させるものであり、「自分」が「女」であること、「男」であることから離れた架空の「人」として思考してはいけないという宣告も行われてきた。いずれにせよ、性は疑うべくもない我々の根拠の一つであり、たとえ現在の「性」の概念が不合理で誤っているという主張だとしても、「性」というもの自体が我々の「自己」の属性として含まれなければならないということを疑ったりはしていない。。
クィアパラダイス/フーコー
性の二分割への批判はたくさんある。
もし双対性にあったとしても個人としては家族は必然化されないだろう、しかし、体制的な骨格には必ずその双対性の組が機能することを迫られるだろう。
したがって自然としての性、一対性、双対性自体を分析したい。
性の構造生物学、生殖
「私は~である」の構造、すなわち「性」が決定的。
これらの自然概念と別の導因からくる「性」概念、主体性。狭い「我々」の構成→対他的な主体=性
分析の対象性と内在性という分岐は「自己」の地平線構造に関わる。
規定性からの逃走、フェミニストの言説
Kファイル読み込み
性概念の二分法
ハチの雄のように一方の性の配偶子(卵)のみから発生する単為生殖もある。だから性は「自然界」の絶対構造だなどは言えず、少なくとも自然の一部であるヒトの場合は卵と精子で生殖していると言うに留めなくてはならない。「生物学概論」1994p74 。 性決定遺伝子はショウジョウバエの場合など。Y染色体上の遺伝子によって雄が決まると言うようなものばかりではない。クロダイ、ニワトリ爬虫類の卵の温度で雌雄別の例.p77 無性生殖と有性生殖というように異なる生殖方法をとる世代を交互に繰り返すもの、ミズクラゲ。
世界の二分割法、自己と他者、男と女と言うカテゴリー内への自己の繰り込みでなく。
「雄・雌」の概念を世界の理解のために生成し、それによって様々なことが可能になってきた。しかし、それらの諸概念に「私」が内包されるとして規定するとすれば、「私」はそれらの概念を生成してきた歴史の外部のものに止まる。被規定性。それらの雌雄の概念を自らが生成してきたものであるとするような「自ら」が作動するとすれば、(内在性の徹底)、「自分」は「男」である、「私」は「女」である、などとは言えなくなる。それは自らが生成してきたものだと自覚する以上、そのような自らにとってはそれは再び分解・変成していく過程性にすぎず、その中に少なくともその概念を生成してきたものとしての「自分」を住まわせることはできないからだ。いうならば、生成した概念、ある差異付けの格子によって記号化された意味、よりも常に広いところにしか「私」や「我々」は存在できない。我々は意味ではなく、価値としてしかあり得ないからだ。それでも、「自分」は、「私」は、「男」である、「女」であるという言い方が可能だとすれば、「自分」も「男」も「女」も自らが内包するものとして思考が作動している場合、すなわち、概念として「自分」、「男」、「女」を扱う文脈でのみである。
「家族」という関係が他のどのような関係と対比されて「家族」として保持されるのかを見ることによって、家族として働く力動があらわにされることだろう。閨閥 社会的関係性を越えて繋げるもの関係の
もしも子供がいない子供のない夫婦、同性愛カップル、
性、自然の位置
1 自然の横断性。物質
身体機械の作動については化学的諸項による説明。電気的刺激。元素、同位体としての差異。情報概念=意味性、陳述の内在平面であるが、それは現実的には、素材的な変化を別の体系内の意味変化として読みとることで可能。二つの論理空間の接合によって生まれる。塩基配列と遺伝情報についてはドゥルーズ・ガタリがミルプラトーで述べている。電気信号。空気振動と言葉、と
さらに生物学における概念結節の階梯を下り、蛋白質やアミノ酸までいけば生物という輪郭結節も無効になる。さらにそのような結合形態をも分解した、分子、原子の水準、さらにそれらの形さえも無意味となる、素粒子の位置まで行けば、その水準では我々の身体は銀河の星々と共に何の特異性も持たず、身体や元素の輪郭は物質の空間に跡形もなく消え去ってしまうだろう。*5
化学的な性質、元素だけではない、同位体としての効果も
2 にもかかわらず、自然と社会という双対性
これらの生物学的な理解によって、個体を分解可能なものとしたとしても、なお、それらを集約した結節として、独自の位置を持つものとしての「私」を変成するのは容易でない。
「概念の歴史」、という概念の必要、その生成機序・順序など、を考えるべき。
分析の対象性と内在性という分岐は「自己」の地平線構造に関わる。
ニーチェ
ネグリ、歴史性
君は男で**ホルモンetcによって規定されている・・・という言い方の分解。自然。
*<生物進化概念について (物質概念と生物概念)>
生物進化の動因は物質進化に他ならないが(『選択なしの進化』)、すなわち進化の主体的位置としてその「生物」(時にはその意志!まで)を想定するのは誤りだと思えるが、生物進化は(物質界を分割し)個体←→環境という脈路上で考察されている(選択概念)。19世紀の思想圏としての進化論。そこから少し変化した現在の進化論では、遺伝子レベルの物質変化は、その表現(形態・機能的異性など)が、その個体と環境との関係における生存適格性の批評(適応概念)を受けそれが遺伝子レベルへの選択として働くとされる(除草剤への薬剤抵抗性植物の繁殖)。要するに二つ以上の次元に関わる変化としてとらえられている。それらの次元の脈路には断絶があるので他方から他方が説明できない。しかしこれは化学「物質」の変化の傾向性を陳述する脈路とその「生物」の形態や機能の変化の傾向性を陳述する脈路とのあいだに対応構造を陳述できない以上は、やむを得ないことである。表現的な変化は常に事後的にしか記述できないように見える。
* 関係の規範性。労使関係、国民としての関係etc。 政治家経営者などに見られるいわゆる閨閥。経済的なあるいは制度的な関係ではなくそれらを越える関係の接合-家族と家族の接合。接着剤としての性交、自然という水準=規則はこれらの経済的位置など制度的なものを平滑化する。夫婦であることによる関係の拡張。親族概念と他の社会的関係の概念。相続概念、平安王朝、患者と医者、etc。
男女の双対性で自己規定しないこと。
性なき我々とは「他者」を体験すること ex ドゥルース「女」になること/生成変化。しかし、自分と区別されたものとしての「他者」に成り代わろうとするのではない。そのような「他者」を多数性として内在する一つの「我・我」になるということである。そのような「我々」を作動させていく、そのような素材において思考していくということである。
フーコー
君との対比としての私が「男」であるあるいは「女」であるという永遠の檻の規定による「自己」励起ではなく、それぞれの作動させる「私」、あるいは「我々」という形態における「同一性」において思考すること。それは評判が悪いだろう。ジェンダーを無視しているとして。だが人権を極限的に徹底することで、その市民社会的な枠を超え出てしまうのと同様に、それぞれの「私」の抵抗は男女の別による差別を越えて徹底的なものとなり得るだろう。
その地点からはむしろ、卵子と精子が生物的な個体(親)の全体を投影縮小したものとして像化されたり、「私」の子供、というような、完備した「個体」の「全体性」から流露する、連鎖、投影、の像で
「個体・我」という自己規定性、性、
個体概念を分解するもの 遺伝子、遺伝=まだ個体連関のイメージそれらを集約する「個体」
個体の基体化こそ生物個体的連鎖の像を構成する。
代理母 アメリカNHK
人工生殖技術「私」の子供
DNAの塩基配列
父の決定方法。幽霊結婚
献血、フェダマンp364
距離は個体を横断している 個体的連鎖ではなく生物学的連鎖は子供を産まなかった者も含めて現在に連なる
遺伝子=機能子そのための格子の粗さと対応付けの水準
生物学者によれば、ヒトの性分化の過程は大体次の4段階に分けられるという。
『人間の生物学』放送大学教材 新井康允 1994 p68
①遺伝的な性-性染色体の性(XX、XY)
②生殖腺の性-精巣、卵巣
③身体的な性-内部生殖器、外部生殖器
④脳の性-内分泌調整、行動、心理
性的快楽の様式
三 性なき「我々」
「生殖」なき我々
平安王朝 私性と公共性の分離膜としての家族 原理的に王には私的家族は存在しない。
* 被規定性からの脱却。
* 自然概念=生成のこと。それに対する社会の概念=基材による構築。胎児をめぐる考察。もたらされること生成=選出、と、選出された概念が基体的規範となって固定してしまいそのエコノミーでの自己増殖、という思考の二つの働きの対比。この二重化、双対化を解体することとしての、概念の自己分解性。
* 下半身不随の身体、性、夫婦
* むしろ性の一対性の普遍化は自己意識の形式がそのような理解としてもたらしたのではないだろうか。
<まとめ部分>
血縁の曖昧さ
すべての「血縁」は生物的個体連鎖ではあっても、逆に生物的連鎖のすべてが「血縁」であるわけではない。したがって「血縁」関係を「生物的連鎖に基づく関係」として特権化し、その否定である「非血縁」の関係を「生物的連鎖に基づかない関係」として対比するのは錯誤である。「血縁」と「非血縁」との間には個体連鎖の距離から見た遠近の差があるにすぎない。あたかも生物的な根拠に基づくかのように了解されていたとしても、「血縁」と「非血縁」の弁別は構成されたものである。これは当然にも直ちに、「血縁」輪郭の拡張により、「血縁による親しさ」の範囲も可変であることを意味する。そしてもし、血縁が占めていた自然的な関係という特権を生物的連関--個体連鎖でもなく生物学的な連関--に譲るなら、--それはすべての人を包含してしまうのでもはや特権化ではなくなるが--それまで「血縁」=「自然的関係」として見なされ、それに基づく関係とそうでない関係とに分離対抗させられて構成されていたこの社会は全く異なる関係性になるだろう。
家族とそうでないものを分岐させるのは自然的な関係が根拠であるという考えは成り立たない。たしかに、一定の遡行する代=親等で規定することは自然を活用してはいるが別の自然的な連鎖も可能な以上、それを持って自然とそうでないものという分離はできないのである。
むしろどうして我々は「家族」と、「家族以外の関係」たとえば会社や地域での関係、とを分けて構成していて、その間を日々行き来しているのだろうか、その弁別規則はどのようなものとして成立しているのだろうか、という問いこそが
我々が「家族」という関係性を語るときに、家族をそれ以外の関係とを弁別させ、「家族」として輪郭付け規定させている指標が、血縁という生物・個体的な連鎖そのものではないにしても、家族を他の社会関係--会社での関係など--とは区別し「家族」として弁別し囲い込むその関係付けの仕方が
家族という関係と家族以外の関係という風に
する要素は、やはり、たとえば「生物的な必然=性」の関与とか、固有の親しさなどとして主張される--があるのだ、といったような むしろ、問題化されるべきは、「生物個体の連鎖」と「家族」は彼方の消失点では一つに溶け合っているように感じられるのに、具体的にみていくと「生物的な連鎖」から「家族」には行き着かず、「家族」からも「生物的連鎖」には行き着けない、要するに両者は対応してはいない、にもかかわらず両者が、一体化されるべき特別な関係付けで理解されているという現在の状態そのものであり、「自然」と「我々」の関係である。
自然
連鎖するものの画定
父・母・子という連鎖はどのような基体による連鎖であり、何をその基体間でやりとりするが故に連鎖でありうるのか。出生、母体から一つの子供が文字通り産み出されそれがまた
「連鎖」は繋がるべき基体が設立されていなければ成立しない。
***2 血縁と生物学的連鎖との違い。(生物的連鎖と生物学的連鎖の違いに注意。)→個体が基体になっているかどうか。性も同じく個体が基体
個人の連鎖
生物的な知識による。連鎖とか、自然的な連鎖と言い換えてもいい。
マリノフスキーに比べて個別化が進んできた個体、配偶子にまで、個別身体 DNA
↓
しかしその身体の個別性/DNAへの分析はその水準での身体の連続性を見いださせる。
NHK放送 私の子ども、と共同性、
↓
家族として分離する必要があるか
2 性 自然
自然概念 性という規定、ジェンダーとセックス 文化と自然という分割の分解=ジュディスバトラー/ヘックマン=セックスも構築物。性を持つものとしての主体化× フーコー 我々は本当に一つの性を必要としているのか?
性差のスペクトル
脳の男女差 物質=主体化並行論 唯物論の真価
3 社会vs
社会との分離
親しさ、と全く別の親族関係 平安朝
王は近親相姦を禁じられない。社会的性
4 二項対立の性の終わり、
社会との対比による自己規定の終わり
両方で主体性の構造化
↓
フーコー同性愛的禁欲 別の社会編成 横断してしまう線
******* 断片 集 *********************
しかし、配偶関係にある者同士が生物学的な配偶子によって現実に「子」をその関係の中に生成していなくてもやはり、「血縁」、生物学的連鎖、自然的連鎖などという概念が、「家族」を他の関係から分けているという慣習的な理解に説得力があるとすれば、「家族」を家族として弁別させる根源的な力動として、現に自己が「その血縁関係内にあること」という連鎖の被規定と、これから「血縁関係を生み出そうとすること」という能動的な態度とが、融合した形で「血縁」という曖昧な地平線をなしているからだろう。血縁的なものとそうでないもの、そのようなある分割が社会の中の家族、家族とその外部、といった輪郭性を構成している。それはまた、血縁を形成することができる行為として性交が理解されている限り、たとえその性交が子供を生成する現実的な手段になろうと個有の楽しみであろうと、家族は性交を含んで他の関係と自己を弁別するだろう。しかし逆に、性交する関係がすべて家族には結びつかない。これはヒトの発生は性交ではなく、受精が指標であることと、そのコントロールの技術的理解が
自然的生成の概念、
というものがが核にあるからだろう。したがって家族に関するキーワードとして可能な「血縁関係」とは精確に言えば「性的関係」ということになる。 自然という「地平線の彼方」
連鎖から見た関係付けと、対偶としてみた関係、
しかし経験的にみて、血縁関係にないはずの夫婦が、他の人間関係に比べると、しかしどこか「血縁」という語と溶け合ってしまうような
血縁という曖昧さ分析されなくてはならないだろう。
基準、本来性としての自然、父、母、子関係「父」の概念がなく、「母の夫」という概念しかない
* 最初に、「家族」が自らの最後の拠り所(地平線)としているように見える、「自然」「生物学的必然」「男・女」「性」などの概念が、「我々」を何ら存在規定することはできず、「我々」はそうしたものと独立に、むしろそれらの諸概念を生成する活動として、自らを創出し続けている過程性のことなのだ、ということを述べることになる。
* こうして家族の関係を規定する場合に、配偶、親と子、兄弟姉妹、の三つの概念があればその反復によってすべての関係は記述できるように見える。すなわち一つのモジュールの起点としての配偶関係(夫婦)、世代間の関係付け(親子)と世代内の関係付け(兄弟姉妹)があればそれが家族や親族の関係のすべてを指定できるのだ。
平安時代
レヴィ・ストロース
言い換えれば、固有の「私」として気づいた時すでにその関係の内にあったものとしての家族、生々しい桎梏であったかもしれない「家族」、あるいは自らが未来に構成しようとした、あこがれであったかもしれない家族という関係、制度において、マスメディアにおいて、日常生活において語られ装置として働いている「家族」をめぐり、経験的な脈路から思考を切断することなく分析を進めること、である。
生物学的連鎖=人類概念まで 自然的連鎖=物質性、宇宙
我々は現在、家族関係の基礎モジュールとしては父・母・子などの生物的個体の位置関係を基準格子とし、その標準的な関係をそうした生物的根拠付けを全く持たない関係--いわゆる「義理」の関係--に対しても投射して人々の関係付けを正に家族、父、母、子として名のらせ規格化しているばかりでなく、他の社会を理解しようとする時の物差しとしても使用している、ということはやはり我々に個有の事柄として注目しなくてはならない。
現在の常識的見方に従うならば、そこで流通している家族の標識としての「血縁」とは、その語の正に生物学的な意味での精子や卵子の結合連鎖に局限されているのではなく、もっと拡張されたものであると理解すべきことになる。すなわち、「現に血縁関係にあること(生物的個体的連鎖にあること)」と、「これから血縁関係を生み出そうとすること(生物的個体的な結合への意志=性概念)」、あるいは「社会」と区別した「自然的関係」に入ろうとする意志、などというようなものとが融合して一つの「血縁」というような標識を成しており、それは自己、自分たちを繋ぎ止める基盤として、個体・生物・自然、という深淵を彼方の消失点として持っているのではないか。
そうだとすると結局、文化人類学者たちが観察対象とした社会--我々にとっては常識になっている生物的な連鎖を全く無視している--からは遠く隔たっていると考えられた我々の社会も、彼らと同様に「生物的な個体連鎖」によってのみでは、自分たちを関係付けて家族や親族を構成してはいない、という点において同様ではないのか。人は、基底にある「生物的な個体連鎖」とは別の関係付けとして「家族や親族」を構成するものであり、その関係付けの仕方が時代と場所によって違うだけだ、ということではないのか。我々は「自然」を基盤にはしているが、その上に「文化」を構成するものでもあるのだ‥‥‥、と。
おそらくそうではない。
血縁、自然、家族、こうした事柄をめぐるあいまいさで構成される「我々」がそれらから派生する、たとえば愛憎の苦しみ、世帯の生活苦、病・老・死の不安--それが「社会的」な問題だといわれようと--「家族」を領域に含む様々な苦痛や理不尽さを味わい、それらについて何故なのかと考え出すならば、父・母・子、夫・妻兄・弟・姉・妹、等々、生物的個体の位置関係を指名する諸範疇、「科学的な真理」に基づくとされるその範疇の有効域を厳密に画定し、それらを規範とする連鎖概念が「我々」への規定でありうるのか、さらに、生物学的連鎖の概念を「我々」に対して捨てないのだとすればそれはいかなる形態でなら可能になるのか、これらを真正面から解析することが求められざるを得ないのだ。
血縁、自然、家族、こうした事柄をめぐるあいまいさで構成される「我々」がそれらから派生する、たとえば愛憎の苦しみ、世帯の生活苦、病・老・死の不安--それが「社会的」な問題だといわれようと--「家族」を領域に含む様々な苦痛や理不尽さを味わい、それらについて何故なのかと考え出すならば、父・母・子、夫・妻兄・弟・姉・妹、等々、生物的個体の位置関係を指名する諸範疇、「科学的な真理」に基づくとされるその範疇の有効域を厳密に画定し、それらを規範とする連鎖概念が「我々」への規定でありうるのか、さらに、生物学的連鎖の概念を「我々」に対して捨てないのだとすればそれはいかなる形態でなら可能になるのか、これらを真正面から解析することが求められざるを得ないのだ。
A お父さんが入院してるけど、私たち、強く生きていけます。
ほんとうはちょっと心配だった。入院したらやっぱり不安。/うちのことはどうなるの。私の進学はどうなるの。/でも保険に入っていたから、大丈夫みたい。/もしものときも、私たちのことを考えていてくれた。そんな頼りになるお父さんを、ちょっぴり見直した。/おかげで、いままでどおり強気でいられる私です。
(医療保険会社の新聞広告文面 女の子の少し心配そうな表情の写真に配置。朝日新聞一九九二年六月一六日)
B 「夫の職場復帰まで」名寄闘争団家族会 ‥‥‥しかし昭和六二年(一九八七年)二月十六日、JRと清算事業団への振り分けの日が来ました。‥‥‥その日から生活や将来の不安などいろいろと話し合ってきましたが、四月に国鉄は分割・民営化され、夫は清算事業団に入れられ、家庭は明るさを失ってしまいました。子供の誕生が間近にも関わらず、二人の会話は議論ばかりで、笑うことも忘れていました。四月十二日、無事に健康な娘が生まれ、この時だけは全てを忘れ、二人で喜び合いました。清算事業団の三年間は、子育てに追われながら、再就職か、広域採用か、地元JRかと、夫ともぶつかってきました。でも最終的に、なにも悪いことはしていないのに、理由も告げられず、紙切れ一枚で首を切られたことは許せませんし、地元JR復帰までがんばろうと話し合いました。(しかし一九九〇年三月に再び清算事業団からも解雇され)挫折と悔しさ、不安の中から、仲間と共に闘争団を結成し、夫はアルバイト(パチンコ店)に出ました。生活は苦しくなり、嫌がる娘を保育園に預け、私もパートとして働きに出ました。二年前の四月、娘が小学校に入学しました。支援の皆様からいただいたランドセルを背負って、喜んで学校に行く姿に、夫も私も心から娘の成長を喜びました。 でも夫の勤務が遅番のため、娘とはすれ違いの毎日です。土・日・祝日はほとんど仕事で、遊んであげたり、会話する時間が少なく、娘にも寂しい思いをさせてきました。 理由なき一枚の紙切れで解雇され、二度も首を切られ、宿舎の追い出しも一方的に迫られ、生活する権利までも奪われようとしています。 ‥‥‥私は、夫と娘、国労の仲間、そして家族会のみんなと一緒に、一日も早く夫が地元JRに戻り、元の生活に戻れるよう精一杯がんばり続けたいと思います。/「私のお父さん」小学校三年生 ‥‥‥ほんとうはもっといっぱいやさしいお父さんお母さんと、三人で遊びたいです。でも、しごとがあるからがまんしています。‥‥‥ (国鉄労働組合機関紙「国鉄新聞」一九九六年四月二〇日「あのとき生まれたこの子と共に」)
C ライマンさん(六〇)は、脳卒中で倒れた夫(六八)を十四年間みてきた。‥‥‥ボイさんは二〇年間難病の息子(五六)をみてきた。七人が互いの辛苦を認めあい、毎日が意味のある日々だと励ます。(朝日新聞一九九四年十二月十日「介護保険が始まる」‥‥ドイツでの在宅介護自助グループの取材)
D 十七歳の息子が、イスラエル軍に投石した容疑で捕まった。息子が、みんなの前で、あまりにひどく殴られるのでかばおうとしたら、私も殴られた。 「わかりますか。男は家族全員を守る義務があり、父親は強くなければならない。子どもには絶対の存在でなければならない父親が、目の前で侮辱されるのがどんなことか。父親として、息子を助けてやれないつらさがどんなものか」(朝日新聞一九九三年七月二日「乳と蜜の地で」7)
こうした、それぞれの喜びや苦悩の様々な姿の中に、形作られ、「家族」と名指される事柄はどのようにして成立しているだろうか。
病気と死が、自らと家族の上にもたらす不安が、保険会社の膨大な保険金収入に変わる。しかしその資金の運用、すなわちその資金によってどのような社会的活動を組織し現実をどのように変えていくのか、その決定権を我々が持っていないならば、家族は「搾取」されたのであり、その不安は拡大再生産されるのみである。
家父長的な父親の威厳など否定すべきことではないのか、しかし父親の威厳が損なわれた、として言われているのは植民地化された住民の抵抗の局面での出来事であった。
一 「家族」の輪郭化
「家族」は、「自然」という自明性の概念と「社会」という構成の概念の間に結節として存在しているように見える。たとえば「生殖」は、生物学的に見れば任意の男女の一対の性交・受精によって可能であり、その次元からはけっして現在「家族」と呼ばれているような継続的な関係、また様々な親族構造というような複雑なバリエーションを導くことはあり得ないだろう。ところが実際には、(現在日本の例では)この「生殖」に関わる男女の一対性が家族の普遍的根拠であるかのようにいわれている。一方で「生殖」は、社会の維持再生産(未来の労働力の再生産)のために現在の「家族」が負っている「機能」であり各人に課せられるものであるかのようにいわれ、国家が管理すべき対象としても考えられている*6。まさに「家族」は、「自然」と「社会」を結ぶ結節として浮上し、それゆえ、それは「自然」から↓「社会」といったような「生成」の概念(「子供・育児」という場所)と、逆に「社会」から↓「自然」といったような「死」の概念(病気、介護)の宿るところになっている。そして社会は家族のその機能を制御し、援助しなければならないのであるが--子育て支援策、介護への援助等々--、それは社会と家族とを融合させ同質化させるためではない。「家族」の持つ特定の親しさと「社会」の中における関係の親しさとはどこまで行っても異質のものである、という前提、すなわち、むしろ「家族」の輪郭化、「家族」と「それ以外」との弁別の不断の確認とその関係の再編成がそれらの「家族への支援策」には貫かれているように見える。
自然↑↓社会の対比は、快楽における性的なものとそれ以外という対比だけでなく、私↑↓公の対比に重なり、そのため家族はいつも、よそよそしいものとしての社会の荒波の中で、様々な力関係に貫かれながらもそれを折り返し必死に、自らの生死の境界を意識しながら生き抜く共同性(拠り所)といったものになる。その臨界は病気の来襲と貨幣(収入)の途絶であり、それへの恐れが「自由」な個人とその家族に及ぼす力は社会を組織する権力でもある。しかし同時に、その恐怖を強いられた極限で、向かってくるその力線の脈路によって自らを組織されてしまわずに、それを反射あるいは分解できれば、恐怖を逆に徹底的な抵抗の力線へと変換してしまうこともできるのである。
逆に一組の始祖から子供が産まれそのまた子供というような増加数列の起点に据え付けたシンボル=トーテム
すべての「血縁」は生物的個体連鎖ではあっても、逆に生物的連鎖のすべてが「血縁」であるわけではない。したがって「血縁」関係を「生物的連鎖に基づく関係」として特権化し、その否定である「非血縁」の関係を「生物的連鎖に基づかない関係」として対比するのは錯誤である。「血縁」と「非血縁」との間には個体連鎖の距離から見た遠近の差があるにすぎない。あたかも生物的な根拠に基づくかのように了解されていたとしても、「血縁」と「非血縁」の弁別は構成されたものである。これは当然にも直ちに、「血縁」輪郭の拡張により、「血縁による親しさ」の範囲も可変であることを意味する。そしてもし、血縁が占めていた自然的な関係という特権を生物的連関--個体連鎖でもなく生物学的な連関--に譲るなら、--それはすべての人を包含してしまうのでもはや特権化ではなくなるが--それまで「血縁」=「自然的関係」として見なされ、それに基づく関係とそうでない関係とに分離対抗させられて構成されていたこの社会は全く異なる関係性になるだろう。
**進化論一般について
進化論をめぐる「なぜAはBに進化したのか?」という設問とその「なぜ」への回答が無意味であるのは、「A」や「B」がこうした素材的な連鎖の中からたとえば個体の形態的機能的行動的差異などとして抽出された弁別(概念・カテゴリー)であるにも関わらず、言い換えれば素材的変化の「表現」であるにすぎないにも関わらず、あたかもそのような抽出された個有の形態や機能の諸差異が、変化する本体、であると見なされてしまっているからである。
-→-A-→-・素材的(たとえば諸物質に分解しなくても「個体」という結節でも可能)連鎖・・-→B-→ 蝶の模様の変化 AとB 選択説は素材的変化ではなく、比率で現れる模様の変化に対応する機能的な選択を主張する。これは機能的に振る舞える、毛皮の美しさをねらったりする人間行動による絶滅には対応しているのだが。機能が変化の導因であると見なされるのは「機能を持つもの」としての主体の考えがあるからだ。ニーチェの稲妻と雷のたとえ参照。海や山の変化に比べて生物の変化がこのように基体、主体のアナロジーに結合しやすいのは、「個体」であるからだろう。
以上のことをもし認めるならば、そして「家族」が自らについて、その感情的連鎖も含めて自然的な連鎖関係に原型を持つと信じているならば、「我々は一様な生物個体的連鎖網内にある」という理解を前にして、「家族」は自らを他と分かち特権化する支えとしては生物個体的連鎖や自然性一般を持ち出すことはもはやできなくなる。残された特権化の支えとして個体的連鎖の局地構造である父・母・子、すなわち、この父、この母、この子、は他と置換できない固有なものであると信じたとしても、ある局地的構造が固有であるならば、その見地からは、全体構造も固有でなくてはならず、家族とそれ以外、あるいはこの家族とそれ以外、という「裁断」自体が必然性を持っていない。
少なくとも生物個体的な支えは持っていない。このことは「養子」によって構成される父・母・子の家族も同じように自らのかけがえのなさ、固有性を主張できるということからも明らかである。「血縁だから家族」ということと「血は繋がらないけど家族」というのはメビウスの輪の表裏であり、家族は自然と社会の間に析出されるものとなっている。他を分かつ裁断線が、まず引かれ、その線、その裁断線こそが自らを規定し限界づける地平線としての「自然」を構成しているのである。。
もはや‥‥‥ / なぜならば‥‥‥
<家族の「自然性」は「自明性」である。 こうした「家族の標識」は、自己=自分たちを規定する極限として、深淵化された個体・生物・自然、といった項を彼方の消失点に持つことになるだろう。・・・。また結局のところ、「血縁」ひいては「家族」の原像として「生物的な個体連鎖」は公認されており、連鎖単位である「生物的個体」及びそれに囲われて作動する「主体」も、自明で特権的な位置を与えられたままである。>
我々は生物的連鎖にあるのだからという意味では、「血縁」関係だからとは言えない。
血縁は家族の条件ではない。では自然性に基づかない家族はどのようにして構成するか?
だから、子供のない夫婦でも赤の他人同士でもやはり「家族」である、という現在の常識的見方に従うならば、家族の標識としては、このような「血縁」は、その妥当性を失うはずである。しかし逆に、どんな「家族」であってもやはり、「家族以外のもの」との間に形成される弁別感は、「血縁」という語と類縁の感触を持っている、と感じられるならば、すなわち、あくまでも「血縁」(という語感)と「家族」を対応させるならば、そこでの「血縁」は、生物学的な意味での精子と卵子の結合・出生・個体連鎖に局限されているのではなく、もっと拡張されたものであると理解されることになる。言い換えれば、現に血縁関係にあること(要素の垂直的分有=親子関係、水平的分有=兄弟姉妹関係)と、これから血縁関係を生み出そうとする共同意志(夫婦関係・性概念)、もっと言えば、「社会関係」と弁別された限りでの「自然的、愛情的関係」によって「自分たち」を組成しようとする意志、などという事柄を融合した標識として「血縁」は再構成されることになる。
ここにおいて「血縁」は中心核を持つ球体のような構造になる。内核は生物個体連鎖における父・母・子の位置関係そのものであり、外周はその生物個体的な関係の属する水準として画定された「自然性」という概念領域で覆われている。中心から具体的生物個体連鎖の界面を通して外側を覗くとその視界全体は自然そのものである。そこでは「私たちは生物的な自然関係なのだから家族そのものである」と主張される。一方、「自然性」という概念の表面から中心を覗き込むとその視界は、具体的な生物個体連鎖の像への消失線で自らを他と分かち続ける極性を持った空間である。それは、「現実には血縁関係になくても私たちは実の親子以上に『親子』(家族)だ」というような言い方で実現される。こうして、「家族」は「自然」へと関係付けられ、「自然性」以外のものとの弁別において自らを成り立たせているように見える。そして、自然、血縁、個体的な連鎖、家族などの概念は地平線で融合してしまっているように見える。しかし、本当に、現実的「自然」は我々をして「家族」へと析出させる脈路を内包しているのだろうか、言い換えれば、血縁にある者=生物個体連鎖にある者、血縁にない者=生物的個体連鎖にない者、という「=」は共に成立しているのだろうか? 「血縁」と「生物的な個体連鎖(自然)」とは本当に同値であるのかどうかが、検討される必要がある。それは家族と重ねられて語られる「自然性」と、同時代の科学が理解する「自然」との違い、言い換えれば、生物的、自然的存在としての我々、という自己理解に関わる、「自然」概念の検討である。
受精出産という構成において家族を規定することは、子供のない家族もあり不可能、結局
なお、人種概念においても同じ。ミトコンドリア・イブ。宇宙論と同じ、距離〇のおけるカテゴリーの無効化。「人種」、生物的「個体」概念の無効性の地点。分子時計によって想定される「共通祖先遺伝子」というのも実体化はできない。カテゴリーの保存のままの遡行は個体数の減少として、最終的には一(そのカテゴリーの始祖)として表現されざるを得ない。
*民族概念、『DNA伝説』 人種主義者達、さらに一万年遡れ。もちろん、彼らはどんな対抗的論理攻勢を受けても、いや我々は歴史的なあの時点から○○民族として成立したのだ、と基体としての「自分たち」という輪郭を決して手放さないだろう。論理の対抗性自体が彼らの「自己」を召喚するのだから。その「自己」の分解は、民族概念自体を解体しなくてはならない。 別の力を誘発すること。
*
人工生殖技術の持つ強調点の矛盾
血縁(遺伝子)系列の卓越化、と同時に、それの無視。「自分の子供」の二重性。血縁的な意味での「自分の」の強調と、養育権など権限的な意味での「自分の」ということとの二重性は、重ならないことがある。誰かの血縁の主張を無化して初めて成立する。あなたも血縁の子供がもてるという血縁の強調は、結果的にそれが実現できず自分のでない血縁で子供を実現せざるを得なかった場合に問題を引き起こす。代理母のようにそれが争いになることもある。自己選択したシングルマザー。
それがよいかどうかの論理判定でなく、実際の経験者の言説を参照した。証言集『不妊』レナーテ・クライン編「フィンレージの会」訳晶文社一九九一、『シングルマザーを選ぶとき』でなく、
一方で、生殖機構の研究によって開発されてきた様々な人工生殖技術は、自らを価値付けるために、血縁、あるいは遺伝子といったものによる絆というものをより強調する傾向に働いてしまう。以前なら子供ができない夫婦がどうしても子供を育ててみたければ養子をもらうか、それが無理なら、自分たちの生物学的限界としてあきらめて、子供のいない生活を構築していくところを、
逆に代理母の場合には
*種の進化の概念は、「AからBへ進化した」、と語られるような、A、Bといったカテゴリー的な弁別の時間的順序づけであるが、それは、それらのカテゴリーを横断している素材的な構造変化の上に描かれた陳述であり、カテゴリー間の距離にはそれらのカテゴリー弁別によっては機序が認識できない別次元の素材的変化の系列が存在している。このような弁別である種の区別とは、たとえば瞳の色が茶色い、青い、といった具体的な対立構造による弁別と同一と違って、それら個別の差異と同一の集合体という新たな次元での差異の設立なのである。したがって「最初のヒト」とは既に弁別された後の「ヒト」という範疇から逆上ってのみ打ち立てられたものであり、個体的にそれを想定するのは不合理である。(日本で最初のパン屋という範疇との違い。パン屋はAというDNAの塩基配列というのと同様、陳述の中で表現される差異が、パンと蕎麦,ATCGの順序というような定立されている差異の項目空間内で成り立っている。しかし、人とチンパンジーなどのような種の弁別はこの場合特に進化という、あるものから別のあるものへの変化という、ことであり、弁別するカテゴリーの創出に関わる差異付けであり、そのために「最初のヒト・・・」という問いが、不合理になるのである。記号化されたものに基づく空間と、記号化を生みだしまた変化させるする空間との違い。)「私たちの起源」を個体のような何らかの基体性の上に想定するのは、「自分・達」を「他」と弁別するその「自己」確信の姿にすぎない。その意味でそれらは、「はるか昔、私の祖先はコウモリに姿を変えて飛んできた。だからわたしたちはコウモリの一族なのだ。祖先のコウモリが降り立ったそこにはまだ誰もいなかった。そこが私たちワヘイの始まりの地だ。」(パプアニューギニア・ワヘイ族の長老による自己説明。NHK教育テレビ、「国際先住民年・祈りの大地」一九九三年九月二七日放送)、というような言い方と共に同じ様式を構成している。
しかし、むしろ、「個体は必ず親を持つ」という原理を適用するならば、「我々」ははるかに「ヒト」と「生物」を越え出ている。
なお、DNAの塩基が他の塩基に置き換わる突然変異数は時間に比例する、という分子時計を仮定し、細胞内小器官であるミトコンドリアが持つDNAの塩基配列を比較したところ、現代のヒトのミトコンドリアDNAの分岐状態から逆算すれば共通の祖先遺伝子を約二〇万年前に想定できる、という研究結果が一九八七年に発表された。当初その共通祖先遺伝子を持つ「個体」という想定がされていたらしく、さらにミトコンドリアDNAは母親のみから子に伝わるということから、その西欧の研究者達の文化背景における「人類最初の女性」、イブに擬して、「ミトコンドリア・イブ」としてセンセーショナルに表現された。日本語でもたとえば、「人類の先祖イブはアフリカにいた」米科学者、英紙に発表(一九八七年二月四日、朝日新聞夕刊、みんなの科学)、と報じられた。しかし遺伝学者によれば、「これが誤解を受け、人類の起源は二〇万年前のひとりの女性であるという風潮が現れ」てしまったが、同じようにして他の遺伝子の共通祖先を調べると、ヒトがチンパンジーやその他の類人猿と分岐するよりも古く、ニホンザルなどの旧世界ザルとの分岐に近い、五〇〇万年前から三〇〇〇万年前まで逆上るものもあり、「一〇種類の遺伝子を調べれば一〇種類の異なる共通祖先がいるわけで、すべての遺伝子に共通したイブやアダムはいないようで」あり、種分化のときに「突然変異によって優れた形質を持った一個体が現れて、それが古い種を圧巻するような考えがまちがいで‥‥‥新種の形成は、集団の人口を維持しながら徐々に新しい形質が集団中に広まっていくような過程であるようです。」と述べている。(「ヒトはどこから来たか」今西規・五條堀孝、『ヒト[遺伝子が語る人のすがた]』共立出版、一九九七年、所収)
化学的物質名の作用。
意識と物質との関係
「身体」という輪郭を介在させることによって可能になる「意識」についての陳述があるとすれば、身体と意識との間に対応可能性な分節を抽象化できたということを意味している。そうした分節化されない意識そのもの物質そのもの、の対応性。
しかしそこに位置という概念を導入するとすべては固有なものとなる。
*電子の数によって規定されるものとしての化学反応だけではない。ツパイという小動物の概日リズムは薬品によって変えられないが、重水(D2O)の摂取によって長くなる(放送大学特別講義生物時計①千葉喜彦1997/03/05)(しかし、同位体は化学的性質が全く同等ではない。)
自己分解性
その個体の特性としては特に親子兄弟姉妹を特異な個体の関係として考えることはできないことが明らかになった。。
そうであるならば、いったいどのようにして家族という特異な集団性は根拠付けられるだろうか。これは家族であると規定された者が家族であり、個体からは家族を規定できないという不可逆性、であり、‥‥‥ 要するに、身体の次元において系列性は成立せず、出産という「分離産出」という表象か、ファルス(勃起した男性器)または何らかの潜在的力能が及ぼす「力の伝播」という表象によってしか、むしろ、親子という、血縁という、縁組み、系列は成立しないのである。たとえば、それは別の脈路から生成されてきたものである。言い換えれば、生物学上の(すなわち「自然」における)類縁性という審級から導かれるものとして人の関係の親縁性を論ずることはできず、あくまでもそれら(たとえば「家族」)は人が、むしろ「生物学」とか「自然」という概念を駆使して自己を根拠づけ構成してきたものとして考察されねばならず、むしろそのように使用される限りでの「生物学・自然」概念がその位相を検証される立場に置かれるのである。セックス(性)概念
再び元に戻り受精出産の関係? 親子? しかし養子も
性交? しかしそれも複数の人と行うだろう
自己規定性に求めるしかない。
個体の「部分」の交流としての輸血、骨髄液移植
*要するに、身体の次元において系列性は成立せず、出産という「分離産出」という表象か、ファルス(勃起した男性器)または何らかの潜在的力能が及ぼす「力の伝播」という表象によってしか、むしろ、親子という、血縁という、縁組み、系列は成立しないのである。たとえば、それは別の脈路から生成されてきたものである。言い換えれば、生物学上の(すなわち「自然」における)類縁性という審級から導かれるものとして人の関係の親縁性を論ずることはできず、あくまでもそれら(たとえば「家族」)は人が、むしろ「生物学」とか「自然」という概念を駆使して自己を根拠づけ構成してきたものとして考察されねばならず、むしろそのように使用される限りでの「生物学・自然」概念がその位相を検証される立場に置かれるのである。セックス(性)概念