古い読書の傍線から 「内在ーひとつの生・・・・・・」
1995年11月に自殺したG・ドゥルーズの、(刊行されたものとしては)生前最後のテキストから。
「内在ーひとつの生・・・・・・」
『狂人の二つの体制1983-1995』2004所収・小林秋広 訳から
日本語訳初出「文芸」1996年春号
超越論的場はひとつの内在面によって定義され、内在面はひとつの生によって定義される。
内在とは何か?ひとつの生……超越論的なものの指標として不定冠詞を理解しつつディケンズほどみごとに、ひとつの生とはなにかを語った者はいない。極道が一人、みんなが侮辱し相手にしない悪漢が一人、瀕死状態におちいって運ばれてくる。介抱にあたる者たちはすべてを忘れ、瀕死ほんのわずかの生の兆しに対し、一種の熱意、尊敬、愛情を発揮する。みんなが命を救おうと懸命になるので、悪漢は昏睡状態の底で、なにかやさしいものがこんな自分の中にも差し込んでくるのを感じる。しかし、だんだんと生に戻るにつれ、介抱に当たった人々はよそよそしくなり、悪漢は以前と同じ下劣さ、意地悪さにもどってしまう。この男の生と死の間には、死とせめぎあうひとつの生のものでしかない瞬間がある。個人の生は、非人称とはいえ特異なひとつの生を前に身を引き、ひとつの生はそこに、内的かつ外的な生における諸々の偶発事から、つまり到来するものの主体性と客体性から自由になった、純粋な出来事を開示する。だれもが憐れみをよせ、一種の至福に達した「ホモ-タンツム(just man)」。もはや個体化ではなく特異化からなる此性。純粋な内在の生であり、いまでは善悪を越えた中性的な生、というのは、生に善悪を与えていたのは、諸事物の間で生を体現していた主体だけだったからだ。個体性からなるこんな生は消えていく。他の者とは混同されないが、もはや名を持たない一人の男に内在する特異な生を前にして。特異な本質、ひとつの生……。
参照されていたのは、ディケンズ『我らが共通の友』(中)p318 第3部 長い細道 第3章 生きかえったライダーフッド ちくま文庫 1997
ここで言われる、「特異性」、「此性」は、「世界の唯一性」という言い方に変換でき、「自体性」の確認動作として、生きられている。
当時これを読んで思い起こしたカミュの短編「唖者」。
『転落・追放と王国』新潮文庫1969 訳者、窪田啓作の解説から
『啞者』は小企業に働く労働者を扱う。ストライキは失敗し、要求はねつけられる。労働者たちは再び仕事に就くが面白くない。使用者側に対しては一切口を利かない。しかし、主人の子供が急病になると、労働者たちの心は動く。目にたたぬほど徵かだが、動く、この人間の不幸に対する憐みの心、この率直な善意が、彼らのこわばった気持を優しくときほぐす。
更にいえば、『資本論』第一版への序文 長谷部文雄訳から
生じうる誤解を避けるために一言しょう。私はけっして、資本家や土地所有者の姿態の光明面をえがいてはいない。しかし、ここで諸人格が問題となるのは、ただ、彼らが経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級諸関係および利害関係の担い手であるかぎりにおいてである。経済的な社会構造の発展を一つの自然史的過程と解する私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を、諸関係――すなわち、いかに彼が主観的にそれらを超越しょうとも、社会的には彼がそれらの被造物たるにとどまる諸関係――の責任者たらしめることはできない。